証言20

美しき天然
                                                                              宮城(女性 ・積徳高女)

    1945年く昭和 20年)3月、沖縄への空襲が日増しに、激しくなったので、東風平国民学校での看護教育実習をとり止め、一時避難していた富盛の壕を出て、豊見城城址の第二野戦病院壕へと出発した。暗闇と艦砲射撃に対する恐怖の中での行動でした。時たま、聞こえる炸裂音、頭上を越えて行く光の無気味さ、唯黙々と前進するのでした。

    母が紡ぎ、その生糸で仕立てた錦紗の羽織、必要もないのに何で私に持たせたのだろうか。リュックを背おったら暖かく、その温もりの中で、母の姿を思い浮かべ、妹や弟、姪たちは疎開しただろうか……色々なことが頭をよぎった。

    「壕が近づいたぞ。」と兵隊の声がした。息をはずませながら、すすきの生い茂る中を縫って行くと、かすかに音が聞こえた。何の音だろう。‥‥‥「コーンコーン。」と杵の音だ。ざわざわする葉ずれの音に交わって、妙に寂しく聞こえるのでした。

   壕内に入り暫くして、小池隊長の前に集合したが「50名余の学徒の責任は持てぬ。」と、各自の希望を提出させられ、結局、25名が残り軍と行動を共にした。数日またずに杵を持ち、傷病兵用に玄米をついた。

    その日から、5月 27日〈海軍記念日)豊見城の壕を脱出してから:つぎは、糸洲の鍾乳洞の洞窟の生活が、また始まったのです。

    梅雨時の6月、馬乗りされた壕内(糸洲の壕)では、物音一つ立てられません。入口から流れこむ泥水は、太ももの当たりまで増し、背丈の低い友だちは、腰まで浸る有様、戸板一枚に5名の数、座るのがやっと、リュックを枕に、足は泥の中、鍾乳石から落ちる雫を舌で受けとめ喉を潤した。

    入口近くに積まれた薬箱は、爆弾を投げ込まれ、無惨な姿を曝し、治療、看護どころではありません。壕の奥へ奥へと退くのみでした。

    友だち二人で、壕内を探検している時のことです。軍刀を「ガチヤ。ガチヤ。」させながら、徳久中尉が近づいて来られたので、立ち止まっていると、暫く黙っておられたが、内ポケットから一枚の写真を取りだされ、「私の家族だよ。」と差し出された。ご本人を中に4,5人の方が写っていました。私たちと同じ年頃のお嬢さんだと伺いました。明日をも知れぬ命の中で、思いはご家族の上にあったのでしょうか。突然「私は、この歌が好きだよ。君たちも知っているか?」とごつごつした岩場の上に軍刀を支えに歌われた。『美しき天然』でした。サーカス小屋から流れてきた曲を思い出した。

空にさえずる鳥の声 嶺より落つる滝の音 
大波 小波どうどうと ひびき絶えせぬ海の音
聞けよ 人々面白さ この天然の音楽を…

    段々と声が小さく、とぎれ、とぎれになり途中で終わった。何も言わずに立ち去って行かれたお姿が、今でも瞼に残っています。

    6月 26日、突然解散命令が下った。何の不安も感じなかった。でも、壕を出る勇気もなく、壕の内と外を出たり入ったり、何度も繰り返していました。その時泣きながら来る春ちやんの声「隊長さんが自決した。」同郷の利子さん、米子さんと一瞬顔を見合わせ、一気に壕外へと飛び出しました。東の空がうっすらと茜色に染まり始めていた。

    きび畑の中で、うとうとしていたら突然「バンパン!」と音と共に土挨が舞い上がった。伏せをし顔をあげると、銃口を向けた青い目の兵隊数名に囲まれていた。覚悟をきめ立ち上がった。足が痛くて追いついていけない。先を行く友二人が振り返り見ていた。

    畦道の所まで来ると、一人の兵隊から坐るよういわれ、観念して腰をおろした。2,3分すると地下足袋を手に戻って来た。黙ったまま靴下を脱ぎ、溜まり水で足を洗って靴をはかせた。「ありがとう」と頭を下げた。どっと涙が溢れ出た。14,5m位行くと、水かんを中に十名位の友だちの姿があった。

    顧みれば、事ある毎に往事を偲び、薄れ行く記憶を呼び戻し語り合って来て53年。友もまた、一人去り、二人去り、淋しさもひとしお。現在ある生活の中、ここ沖縄の島に林立する塔、そして「平和の礎」一永遠に平和を祈念し、次の世代への戒めとなる事を願います。   合 掌

                                        「野戦病院 血と涙の記録」(積徳学徒看護隊)から

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