証言19

ひとりだけ生き残った
                                                        町 田 (旧姓池原 ・20歳 ・女性)

    避難始まる

 中部の方々が、私の家に来て「敵が攻めて来た!どうか避難させて下さい」とお願いされたので、家に入れました。しばらくすると、艦砲がひどくなったので、中部の方々もいっしょに家の近くに掘ってあった壕に隠れていました。

 壕生活もつかの間、前の道を避難民が南部へと向かっているのを見て、「ここは危ない私たちも避難しよう」ということで、夕方になるのを待って、東風平へ避難しました。

    軍の手伝いをさせられる

 東風平では、知り合いの久米さん宅で一泊 し、翌日友軍(日本軍)の壕に入りました。私の家族は8名でした。長男は昭和 18年中国で戦死、次男と三男は一中(現在の首里高校)の学生で志願しようとしたのをやめさせ行動を共にしました。四男は13才、次女は9才。3才の五男は母がおんぶしていました。私と母は頭にのせられるだけの荷物をのせ、父は大工だったので荷物を棒でかついで歩きました。

 どの家も避難民でいっぱいでした。兵隊の壕に入れられたものの、私は炊事婦として、父と次男・三男も炊事、水汲みと軍の手伝いをさせられました。

 壕の中は、水がボタボタ落ちて眠られませんでした。食ペ物といったら、小さなイモで泥水で洗って食べました。

 それから 20日間ぐらいたったある日、民間人が「少しでもいいから休ませて下さい!」と頼むと、兵隊は「あっちへ行け!」と怒鳴り、特に子連れにはひどかったようでした。兵隊は、隠れてばかりいました。

    喜屋武半島へ避難

  その後米軍が近づいたということで、ここの壕を出て喜屋武半島へ向かって歩きました。道がわからなかったため、足の向くまま歩いたみたいでした。昼間は製糖工場の小屋や石垣の側にかくれ、夜になったら逃げまわっていました。

  艦砲射撃があって、すぐ側に隠れていた人が話かけるように倒れてきたもんだから、「どうしたの?」と言うや否やバタッと倒れたわけなんです。ぴっくりして家族のところに行って見たら、くっついて座っていたんです。無事だったんです。そうしているうちにも、隣にいた人が足をやられたり腕をやられたり、またどこをやられたか知らないがバタン!バタンと倒れていったんです。「自分は西原の誰だれだから、うちの家族を見たら、私はここでやられたことを伝えて下さい!」と言い残して死んでいく人もいました。

 もう向こうからもこっちからも人が来ますから、どこへ行っても避難民でいっぱい。具志頭の玻名城に行ったが、空家は避難民でいっぱい、家に入れず、雨でずぶぬれになったので、喜屋武、真栄里を通り国吉部落に行きました。

    親兄弟やられる

 夜遅く国吉部落に着きました。幸いに大きな空家があったので、「眠れるところがあるね」と胸をなでおろしたんですよ。確か 6月初めだと思うんです。この時、米・イモはすでになく、何を食べようかとさがしていたら、豆が干してあったので炊いて食べました。

 6月12日、艦砲射撃がひどいもんですから、みんな眠ることができませんでした。「大丈夫だよ、姉さんが見守ってあげるから、寝なさい」と家族に布団をかぶせて、私と母は起きていたんですよ。

    そしたら、私が居眠りをしたんで、母が「姉さんが眠たいと言っているよ、あけて寝かせなさい」と言って、私を寝かせたんですよ。そしたら、私が寝ている最中に、米兵が来たらしく、父は手を挙げて出ていったらしい。母は「どうせやられるんだったら布団をかぶりなさい」、ということで、厚い冬布団をかぶったらしい。私は、側で夏布団をかぶって寝ていました。

    米兵は、弾をバラバラと撃ち、その後英語で何かしゃべっていたがピーパーとしか聞こえませんでした。一番末っ子の3才になる子だけが「お母さん!怖いよ!怖いよ!お母さん!」とじたんだをふんでいました。この子以外は一声も出さず、バタバタ動いてウンウンうなっているだけでした。

 しばらくして、米兵もいなくなって、静かになったもんだから、起きようとしたがひざがガクガクして、すぐには起き上がることができませんでした。私は夏布団をかぶっていて、親兄弟は冬布団をかぶっていて、冬布団の上からやられていました。

 私には一発の弾も当たっていませんでした。母が座っていた後の方に寝ていたんだけど母、次男、三男、四男、五男、次女とやられていました。父が見当たらないもんですから「お父さんは生きてるはず」と思って、あっちこっちとさがしまわりました。他の人に「うちのお父さんを知りませんか」と聞いたら、「あなたのお父さんは手を挙げて出ていったけど、やられたみたい、後に倒れているのがあなたのお父さんじゃないの」と。その人のいう通り、後の部屋で父が倒れていました。もう声も涙も出なかったですよ。

 撃ったのは小銃だったらしい。家には、80名ぐらいいたが、40名はやられたと思います。米兵は5名ぐらいだったそうです。

    逃げてばかりいた友軍

 翌日、みんなで「夕方になったら出ていこう」と話合っている時、兵隊たちが歩いて来るのが見えた。「あれは友軍の兵隊じゃないですか」と言ったら、誰かが「いや、敵の兵隊だ」と言ったので、私は手りゅう弾を握りしめました。手りゅう弾は、友軍が「アメ リカに捕まったら女はおもちゃにされる、おもちゃにされたくなかったら自決しろ」と言ってくれた。私は8人家族でしたので、2個で充分自決できるということで、2個持っていました。

 私は、一番前に座っていました。そしたら、側の人たちが「なんで手りゅう弾を持っているか、捨てなさい」と言ったが、「敵を一人でも殺さない限り、私は死ねない」と言い争いました。

 兵隊が近づいて来たら、みんな「降参!降参!」という格好で頭を下げていました。その時、後にいた人が「手りゅう弾を放せ!放せ!」と座ったままで私の尻を蹴ったんです。兵隊をよく見たら、友軍でした。そこで、ようやく手りゅう弾を放しました。この兵隊たちは、軍医長や伍長で、銃を持った兵が8名いました。

 そうこうしているうちに、敵兵が来たため、銃の弾や艦砲射撃がひどくなりました。そこで、「兵隊さんは、敵の方に向かって行って下さい!兵隊さんが来たのでひどくなってしまいましたから」と言いました。怖くありませんでした。大人の人たちも「逃げまわっていて、何が兵隊か、何が日本兵か」と怒って反抗していたんです。

    私たちが炊いたイモを竹で刺して食べようとした兵隊に、「兵隊さんは、戦わないで逃げまわって、民間人の食べ物を奪っで食べてばかりいるから、あげない」と生前の母も言っていました。兵隊が来なかったら、弾ひとつも来ないんですよ。敵も知っていたんでしょうね。

   捕虜となる

 しばらく隠れていると、白い煙がモウモウとたちこめて、辺りがまったく見えなくなりました。家が焼かれるかも知れないということで、みんなでかたまって声を出し合いながら、出て行ったんです。10メートルぐらい進むと米兵が銃を構えていて「こっちへ行きなさい!行きなさい!」と。そして、潮平まで歩かされました。潮平には、たくさんの避難民がいました。

 そこで、オニギリが配られたが、「敵の食料は死んでも食べない」と2日間食べず、水だけで過ごしました。2日後、上陸用舟挺に乗せられた時、「この船と共に沈められる!」と言って泣く人がいましたが、私は「みんないっしょに死ぬんだから」と思って泣きませんでした。子供たちがワーワー泣くもんだから、米兵がチョコレートをあげたら「毒が入っている」といって食ペないもんだから、米兵が食べてみせたので、みんな食べていました。

    船は、中城に着きました。そこからトラックで中城の安谷屋に連れて行かれました。

                    「南風原町沖縄戦調査4   兼城が語る沖縄戦」(南風原町)から

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