証言18

一七歳の現地徴集兵
                                                                     吉田(男性 ・18歳)

   昭和十九年(一九四四)一一月、兵役法が改正されて兵役年齢が一七歳から四五歳までとなり、私はまだ満一七歳であったが、徴兵検査を受けた。第二乙種現役兵として、年明けの昭和二十年(四五)三月一日、空襲の中を歩いて、午後五時半、識名園に集合。私はそこから、現在の那覇工業高校付近に駐屯していた球部隊森中隊に配属され、早速小禄村鏡地(現那覇市)の高射機関砲陣地で二七日間、対空射撃の実戦と訓練を繰り返していた。この高射機関砲陣地は屋良座森城内にあり、全部で五門あった。

 この時期に、実戦というのは国場川方面より、那覇港内に停泊している軍用船めがけて低空飛行してくる米軍のグラマン機に応戦したものである。私たち初年兵はもっぱら弾薬運びに従事した。戦果はあまりなかった。

 三月末に入ると、具志頭村の港川方面に米軍上陸が予想されたのか、五門中三門は中隊で破壊して、残った二門で具志頭村に移転することになった。移動は夜間、東風平村を経由し一晩で具志頭村のシラン川(白水川)下流の自然壕にたどり着いた。移動中私は東風平辺りで被弾し、ひざに軽傷を受けた。

 陣地では、米軍の上陸に備えて警備に当たっていたが、予想に反して米軍が北谷に上陸したので、高射機関砲を使うこともなく五月に入っていた。

 それから敵も近くに迫ってきたので、中隊では斬り込み隊を編成して、首里から摩文仁に移動してきた軍司令部壕近くの陣地に移動した。そこから三回も斬り込みを決行した。

 斬り込み隊は五人編成で、その中の一人は案内役としての沖縄出身兵が入っていた。私の班は一回目大里村稲嶺方面を目標にして進んで行ったが、米軍の幕舎が見つからず、戦果なくして摩文仁に引き返した。二回目も大里村字大城辺りまで索敵しながら進んだが、発見できなかった。

 三回目、具志頭村の与座岳周辺に米軍幕合を見つけた。続けざまに手榴弾攻撃を敢行したら、敵はかなり犠牲者が出たのか、重傷者らしい米兵が大声でわめいていて、何も反撃をしてこなかった。

 三回とも一緒に行動した私の班の五人は、幸運にも無傷であった。別の班も何回か出撃したが、その頃から中隊は全滅状態となり、解散となった。

 敗走して海岸線をおりていって、岩陰にひそんでいたら、台上から戦車砲、迫撃砲が撃ち込まれた。それが止むと、マイク放送で牛島司令官が自害したこと、軍人は武器を捨てて投降するように、と呼びかけられた。その話を信じて私はその時捕虜となり、金武村屋嘉の捕虜収容所に送られた。

 やがて、屋嘉から輸送船でハワイ送りとなった。船内での生活は、全員がまっ裸にされ、局部の毛も剃り落とし、生まれたままの姿で過ごした。ハワイ到着までの一〇日間は裸の生活だった。ハワイに上陸する時になって、だぶだぶの米海兵隊の服を着せられ、下船した。もちろんノーパンツであった。オアフ島のイタリア兵収容所跡に入所し、約一年間暮らして、昭和二十一年 (一九四六)沖縄に帰還した。                  

                                                    (「佐敷町史四戦争」佐敷町)から

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