証言17

 陣地構築作業の日々
                           真栄田(旧姓長嶺 ・二高女)
    
一九四三(昭和十八)年の夏頃、那覇商業学校に通っていた二歳年上の兄が、読谷飛行場の陣地構築の勤労奉仕に二〜三日の泊まり込みで出かけていました。その頃、二高女も、小禄飛行場の排水溝堀り作業に駆り出されていました。現在の那覇空港は、当時は小禄飛行場と呼ばれていました。小禄の当間学校(小禄第一国民学校)近くが入口でした。

 作業にあたって、身長の高い順に工具が渡されました。背の高さほどもある大きなツルハシで、幅二メートル、深さ一、五メートルくらいの溝を掘り、掘った土を抱えて地上に運び出す仕事でした。クチャ(泥岩)の塊が大きくてザルに入らないので、おなかで支えて持ち上げました。素足で作業をしたこともありました。「石山」という名札のついた朝鮮人らしい班長が、懐中時計を見ながら絶えず見回っていたのを覚えています。

 年が明けると、勤労奉仕作業は日を追って厳しくなってきました。学業より勤労奉仕にかりだされる日が多くなりました。垣花の南側の丘陵地帯にあったガジャンビラでの高射砲陣地の台座構築作業は、掘り出されたニービ(赤土)をザルにいれ、丘の上から麓ヘリレー方式で手渡す作業で、スピードが早いので、うっかりすると受け損ねてザルを落としてしまうのでした。ザルに土を入れるのは兵隊の役目でした。

 昼休みには、兵隊たちと一緒ののど自慢大会が開かれ、これが唯一の楽しみでした。『誰か故郷を想わざる』はそこで覚えたのです。色黒で歯だけが白く目だっていた中村中尉は、気さくな中隊長として生徒の間に人気がありました。

 高台の上之屋でも内田高射砲隊の陣地構築作業があり、真玉橋の鉄道沿線に沿った小高い丘の防空壕掘りにも従事し、球部隊のあった製菓工場に割 り当てられた生徒もいました。隊長は白石武八郎中尉でした。

    一九四五(昭和二十)年一月から二月にかけて、弁が嶽の電波探知機陣地での土運びは、とてもきつい仕事でした。

    十 ・十空襲で焼け出された私の家族は、全員国頭村桃原に疎開していました。県庁に勤めていた姉と私は那覇に戻り、焼け残った祖母の家(若狭町)に身を寄せていました。モンペの上下の着た切り雀で、大工弁当を持ちワラ帽子をかぶって、朝七時前に家を出て久茂地、十貫寺、崇元寺、安里を経て、大道松原から坂下、山川、当之蔵、鳥掘を抜けて弁が嶽へと急いだのでした。

 旧正月前の沖縄独特のシトシト降るジージー寒さ。冷たさが身にしみました。折りからの雨で現場はぬかるみ、クチャ(泥岩)の足元がすべり、ポロ靴の底ははぎ取られ、素足で爪を立てて、一歩いっぽ踏み締めながら土運びをしたのです。その間係りの将校が長い鞭をかざして、早く早くと急き立てていたのです。

        「白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録」(白梅同窓会)から

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