証言16

親友を亡くした憎い戦争
                                                           神谷 (男性 ・十七歳 ・農業)

 昭和十七年春、小学校高等科を卒業し引き続き青年学校へと進み兄の政輝は海軍志願兵で入隊し、私は父と農業に従事していた。

 小さい頃から戦時態勢の中で育っていたので「一億一心火の玉だ」とか「討ちてしやまん」などと何の抵抗もなく、ごくあたりまえの文句として唱えながら、奉仕作業や度々の軍事教練など受けていた。

 戦況も次第に悪化し十九年十月十日は全く予想もしない大空襲で那覇の町は始んど焼き払われ、親戚縁者を頼って泣き出 しそうな顔で富盛にも来ていた。

 私達は物珍しさに空襲の翌日友達六名で那覇の町を見に歩いて行った。兵隊と巡査が警戒して市内には入れなくて壷川の丘の上に登って眺めたが、まだあちこちくすぶっており、あの賑やかな町が跡形もなくなり、その凄じい光景で戦争の恐ろしさを見せつけられた。帰り道では口かずも少なく、各自これから先のことを案じながら戻ってきた。

 年も暮れて昭和二十年となり、南方を制圧した敵は沖縄周辺に迫ってその上陸も必至の状態となり、集落に駐とんしている守備隊の動きも慌しく、一般の人も共同で壕掘り作業や食糧の調達などと忙しく立ちまわっていたが、健康な者は男女を問わず軍に協力するようにと言われた。

 私も二月二十六日に防衛召集と軍人並みに役場の兵事課から通知を受けた。当時満十七歳でしたが私達の十代二十代それに三十、四十代の人も沢山の人が二次、三次と防衛隊として召集された。

 頼みの男手を失った家族がこれから先の事を心配して嘆いている者もいた。一次の私達は区長さんや青年団長、家族達の形ばかりの激励を受けて出発し、球部隊所属の海上挺身隊行きとなった。南部各町村から来た者は、具志頭小学校に集結し、玉城村の奥武島と対岸にある志堅原に駐屯している挺身二十八戦隊に配置されて集落の民家に分宿の形になった。

 隊の本部や炊事場等があちこちにあり軍隊という気分にもなれなかった。食事も砂糖樽にロープをつけ二人で担いできて食器も満足になく有り合わせのものを使っていた。いもまじりのご飯で満腹するまでなく、最初は要領よく夜相談しあって集落に帰っては腹の足しになるものを取って来て食べていた。

 特攻艇は木製の骨組にベニヤ板を貼り、エンジンを取り付け、全長十米程の舟艇で舶先には箱みたいな物の中に爆薬をつめて敵の艦船に突込むと爆発するしくみになっていた。全速で走るのは見なかったが、見かけはスマートなボートだった。

    一小隊四十名に三隻あて配置され、海岸沿いに掘られた横穴壕から水中へ松の台木が敷かれ、出し入れは人力で手押しだった。雑役もいろいろあったがそれが私達の主な仕事だった。

 艇乗組の特攻要員は下士官級だったが隊舎も別で演習以外は殆んど待機でブラブラしていた。

 臨時編成の部隊で三月中旬頃私達にも衣服が支給され、階級も一つ星をつけ二等兵の申告も大隊長本間少佐の前でやらされた。大隊長は二十七歳とのことでしたがとてもそう思えない風貌豊かな人だった。訓練らしいこともないが、一度集落の小高い丘の上で号令調整をしていたら声が小さいといっては上等兵に気合をかけられたこともあった。

 何の経験もなく要領も分からない少年の私が横着にみえたのかその後も古参兵から目の敵みたいにいじめられ、何かにつけて嫌がらせをいっては辛く当たっていた。年輩の隊員の話では「彼等は特攻要員が自分達より優越されているのを妬んでその不満を君達にぶつけている」といっていたが事の外少年の私達にはひどい暴力を振っていた。

 三月十三日頃奥武島との間の水路に全艇を並べて検閲ということになり、その作業の途中、急に爆音がして飛来してきたグラマン三機が超低空で機銃掃射を浴びせてきた。みな一目散に逃げたが、あれほど大切にしていた艇が三隻ほど使いものにならなくなった。こちらのすることを待っていたかの様な攻撃で不思議に思ったが隊員の被害はなかった。

 翌二十四日から艦砲射撃が始まったが飛行機はその爆音が聞こえて隠れることも出来たが何の前ぶれもなく近くに落ちてくる艦砲はとても怖いものだった。

 奥武島中央の高台で使役の仕事を終えて、上田原出身の国吉眞ゆう君と二人腰を下ろして休んでいる時、近くで弾が炸裂した瞬間、強い衝撃を受けた。私が気がつくと彼は右の大腿をえぐられ血だらけになり喚いていたので抱きおこして行こうとしたが、痛みのために暴れて一人ではとても手に負えず手拭いで患部をしばりつけて急いで小隊長に知らせに行こうとしたが、橋付近は弾が激しくて渡れず正午に砲撃が中断した時、走って行って分隊長に報告した。

    同僚の古波津真栄君ら四名で駆けつけて行ったが彼は出血多量で既に事切れていた。同僚で初めての犠牲者だったが遺体は衛生兵が丁寧にきよめて火葬に付し、骨片を真栄君が後々まで持っていたがその後どうなったか分からない。

 海上を見ると黒山の様な敵の艦船が目に入り思わず身の毛がよだった。間もなく敵は港川方面に上陸するらしいとの事で、その晩は徹夜で船越部落前の壕に舟艇の移動作業をしていたが遂に志堅原基地から出撃するのを見かけなかった。

 私達は糸数の自然壕に入ったが大きな壕で他の部隊も居た。二日程して沖の方を見るとあれだけいた艦船の姿はなく二、三隻くらいになっていた。間もなく敵は北谷の海岸に上陸しているとの話を聞いた。

 四十名で壕から引き出しトラックまで担いで艇の移動作業したのが全く無駄になった。食事も一日弁当箱の一杯宛しかなく、ひもじい思いをしていた。

 しばらくして部隊は豊見城村の高安に移動することになり、夜間を利用して艇をトラックに積み私達は歩いて行った。国場川に合流している餞波川沿いに舟艇を隠し、部落の山裾の壕に移った。

 敵の上陸した北谷に逆上陸し、敵の後方を撹乱するとの事であった。満潮時を利用して出撃する訓練を三回程やったが、これまでと違い設備が悪く艇の出し入れの時は体力のない私達は押しつぶされそうで大変だった。

 訓練中、艦砲射撃を受け三名なくなったが間もなく(日時は覚えていない)知念と久高それに港川出身で漁夫体験者が選ばれて舟艇に乗った特攻組とサバニの彼等で数は何隻か知らないが出撃して行った。作戦が成功したかは分からなかったが、後日知念の収容所で再会した久高の西銘君の話では彼等は逆上陸して行ったとの事だった。それが初めての出撃だったがその後も作戦を続ける為に或日糸満にあるサバニを担ぎに行くことになった。

    丁度私は右肩の小さい傷が腫れて、行くのを免れ、その他四名程が何かの支障で居残っていた。サバニの運搬を終えて来た後、古参の一等兵二人から「お前らは仕事もさぽり、それにお茶の準備もしてないのか」と怒鳴られ横隊に並び激しい往復ビンタで叩かれた。その後一週間位は顔が黒くはれて、あの痛みは今でも忘れられない。

    お茶を沸かそうにも当時は茶の葉もなかったがそれでも反抗する気持もおこらなかった。暴力にはすっかり馴れており、ただおどおどしてばかりのほんとに純朴な少年だった。

 日吉という曹長の指揮で十名の切込隊を組み私達三名も同行し、那覇方面の敵戦車を攻撃に行くことになり出発したが、真玉橋は既に破壊され相憎満潮時とかち合い夜中での決行は出来なくなって引き返したこともあった。私達三名は手榴弾もなく全くの丸腰で何の為について行ったか今考えるとおかしくなる。

    特攻要員の下士官も残っていたが、彼等を長として十名単位で分隊を編成してその後南部へ後退し国吉まで移動したが首里を攻略した敵は間もなく与座岳辺りに迫って来た。私達の隊はこれまで殆んど後方で直接敵の攻撃を受けることはなかった。

 八重瀬と与座岳の防衛線が崩れた六月十三日頃には各分隊がバラバラになり戦車を伴った敵の攻撃で犠牲者が続出した。

 私達の分隊も具志頭方面に移動したが分隊長も戦死し統率者もなくなり同字出身の六名話し合って仲座部落を通り抜け、ギーザ海岸の方に行った。そこには沢山の民間人や兵隊が入り交じって避難しており富盛の人も居て、私の母達もこの辺で見たとの話を聞いたが、なかなか会えなかった。

   横穴になった崖の中腹の壕に居た時、直撃弾を受けて知念幸徳君は即死し、私も左の足首に破片を喰らって傷を負い歩けなくなった。友達が私の家族をさがしあて再会した。母と弟の政常が健在で、父と三男の政吉は亡くなったとのことだった。

 私は歩けないので残っていたが、彼等知念進徳、野原光清、知念栄吉、知念進一の四名は敵中突破して富盛の方へ行くと出かけて行った。いつの間に手に入れたのか、それぞれ手榴弾を持っていたが、その後の行方は分らなくなった。私は治療する薬もなく傷は蛆がわき出てひどく痛み、喉も非常にかわくので母が水汲みに行った。泉のまわりは死体が一杯しているとのことだった。

 崖の上から、そして海上からも拡声器で「出てきなさい」と投降を呼びかけていたが皆ためらっていた。だがぞろぞろと出て行くのを見て私は歩けないので母に背負われて行き、米兵の手を借りて水陸用戦車に乗り、捕虜になった。母は小柄だったが、よくも私をおんぶできたと今でも不思議に思っている。

 しかし、何といっても最後の時点まであんなに元気でいた親しい友達を失ったのはほんとうに残念でならない。

                                       「東風平町史     戦争体験記」(東風平町)から

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