証言15

戦争と人の心
             
                                                                             金城(男性 ・五才)

 当時私は五歳でした。戦争中のあの時の光景がただ、ただ忘れられないのです。

    私たちの家は部落から離れた所のハルヤー(畑の小屋)家の前に小さくもりあがった壕があり、戦争が近づいてくることが私たちにもわかった。家の前の小高い丘にたくさんの壕が作られ、兵隊がいそがしく往来し、とにかくせわしくなっていた。夕方になると私たちの所に来て高い高いと小さい体を高くもち上げて下さった兵隊さんもいた。

 畑のいたる所に軍の米や砂糖が積まれていた。その時までは戦争の恐ろしさも知らず、平和な気持ちでした。しかし一日一日さわがしくなっていた。上の姉も南風原の小学校から部落内へと移った。その時からは父も家にいません。母と姉と私、妹また母はお腹を大きく赤ちゃんが育っていた。

    ある夕方、小高い丘の方で兵隊たちが列をなして那覇の方を見て立っていた。すると、今の国場の上の地平線のあたりに、黒いものがぎゅうぎゅうと、下の那覇をめざして飛んでいる飛行機が見えた。とうとう戦いが始まるんだなあ、と私たちも感じた。

    その後、もう大変な戦いで壕の中でうずくまり何日もごはんも食べず、砂糖にでんぷんをまぜた水を飲み、キビをかじり、生芋を食べ、壕の中での生活が始まった。

    何カ月か過ぎ、おばあさんが見えた。夕方男の赤ちゃんが生まれたのです。名前はカミ−グヮーと付けたとおばあさん。

    それからいく日か過ぎ、あなたたちの壕はこわいからと自分の壕にいってしまった。なるほど、うずくまってもグワングワン、ズシンズシンとなんともいえない。耳をおおい、腹をおさえた。

    それから兵隊たちが南部に移動するため通りがかりに父が壕にはいって来た。男の赤ちゃんが生まれたことを喜んでいた。その夕方すごい爆風がするからと父が入口の方へいった瞬間、ぐわあんと急に目の前全部が暗くなり、なにがどうしたのかわからない。

    すこし時間がたち、小さいラソプに火がともされ、奥行き六メートルぐらいしかない壕の四分の一が埋まり、一番奥の方にいたのが幸いでみんな無事だった。ふと前の方を見ると、大人の高さまで土がうまり、入口の方で父がうなっていた。

    「カマドーよう」と母の名前を呼んでいた。それで母は「お父、マーヤガ(どこにいるか)」と爪で土をほりおこし私たちも入口の方へむかって手で掘りおこしながら、母が「アンマータシキテキミソウレー(お母さん、助けてください)」と大きな声で叫んでいるのがまだ耳に残っている。

    何時間立ったのか分らず、ランプも火が消えかかり、「もうこれで終りかと思った」と母がいったが、その祖母がなぜか心さわがしくやって来たらこのありさま、通りがかりの兵隊さんをあつめ、まだ声が聞こえるから助かっているとみんなでくわでほりおこし、冷たくなりかかっている父を助け、私たちも助かった。

    ふらふらしながら、すぐ祖父の壕に行った。父は前の方にタンカにのせ、その後から私たちが歩いた。その道ばたに大きな木や人も倒れていた。すぐに父をマッサージしたり、いろいろな看病が始まった。特に祖母は二、三日ねずに父を見ていた。

    祖父の壕に三世帯が住んでいた。みんな小さい子供たちです。私たちの父が三男で、次男の方の子供もいて食事を作るのがまた大変です。ようやく父も元気になった。

    しかし、今度は母が夕食を作るため壕から出てごはんに火をつけすこし煙りをだした。その時、偵察機という軽飛行機から機銃射撃を受け、背中の奥深く破片がささっているらしく二、三日水だけ飲んでいた。

    四日目におこしてくれというので母をおこした。背中に丸く穴があき、今でいう死臭がした。そしていった。「ヨシ子、ナツ子、正子、カミ−グヮー、清明ナイネークーヨーヤー(※清明祭になったら来なさいよ)」と言いながら死んだ。みんな泣いた。

    だが敵はすぐそこまで来ていた。大きな声で泣くなとしかられた。現におばあさんが壕から一歩出ようとしたら右うでを射たれた。だから声も出せない。夜になったら南部に逃げようということでみんなで壕を出た。

    部落はずれに来た時、父が正子をおぶって一番前から、その次に親類の人たち、また子供たちと歩いた。その時、敵に父が射たれた。それを見て後の人たちはみんな元の壕にひきかえした。その時に赤ちゃんのミルクも米もなくしてしまいました。

 壕にかえり、父母をなくした私たちは泣いた。どうせみんな死ぬんだから泣くなとしかられた。その時外で「スウー、アンマー(お父さん、お母さん)」と声がした。飛び出すと父が尻の所と足首にけがをして倒れていた。すぐに入れ手当てをした。お尻の所から一ミリぐらいの弾片を爪でひっぱりだすと取れた。

    またミルクのない赤ちゃんは昼も夜も泣いた。祖母がラソプの炎で米をすこし入れたカンにおかゆを作っていた。外には敵がいるという。

    奥の隅の方で祖父が私たちのカミ−グヮーを裸にしていた。私が見たあの姿は丸くふとった色の白い大きめの赤ちゃんだったが、すこし両ひざを立てた祖父が赤ちゃんの口の中へフクター(ポロ切れ)用の物をおしこんでいた。二、三回ばたばたと動いていた。後をふりむき祖父は、今度は力を入れビンにフタをするように口をふさいだ。だらりとしていた。夜、母をうめた所のそばにうめなさいと誰かにいっていた。

 それから五、六日して私たちはこの壕で米兵に収容された。祖父が一番に出た。その次に私たち、後に父がタンカにのせられ収容所に着いた。

    何年かが過ぎる。母がねむっている墓の下をほったら、背中の下に大きめの二個の破片がそこにあった。そして小さな骨も…。

    それから三十何年かたって姉にカミーグヮーのことを話したら「あれは夢だと思ったら本当のことだったんだね−」と。「忘れなさい」と私に一言いうだけだった。

 祖父は八年前になくなり、祖母は九十二歳で元気に暮らしていて、私たちは五年生まで育てられ、これを書くのはいけないと思うのだが、私は祖父母が悪い、と思ったことは一度もありません。いっしょにいた小さい子供たちみんな元気で、一人前の大人になっているのを見て、一人のためにたくさんの人が助かったことを喜びといえば悪いけど、ああさせた戦争が恐ろしいのです。

※清明祭…沖縄における祖先供養の祭りの一つ。
                                                     「沖縄の慟哭 戦時編」(那覇市)から

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