証言13

志堅原基地よりアブチラガマへ
                                                                                   新 垣(男性 ・29歳)         

 わたくしは昭和19年1月から玉城村青年学校に勤務していました。昭和19年6月、米軍がサイパン島に上陸して、戦況が急変すると南西諸島の防衛強化の為伊江島・読谷山・北谷・屋良・小禄等の飛行場建設が急ピッチに進められて、県下の中等学校・青年学校の生徒も飛行場づくりに動員された。玉城青年学校も2週間読谷山飛行場(北飛行場)の作業に従事した。7月下旬で猛暑の中、入浴の川もなく茅ぶきの土方部屋でイモ飯を食べ頑張ってきた。
    
    昭和19年6月沖縄守備の第32軍が編成され、沖縄守備の最初の部隊となった、独立混成第44旅団、第45旅団の兵員を乗せた富山丸が徳之島東沖で米軍潜水艦に撃沈されたので、その後第9師団(武部隊)の一部と独立混成第44旅団独立混成第15聯隊(のち玉城村に配備された部隊)が宮崎県新田原飛行場から読谷山飛行場と伊江飛行場に1週間もかけて空輸されてきた。ちょうどその頃読谷山飛行場の作業中で、この兵員空輸の情報があった。

    第 9師団(武部隊)第19聯隊第 1大隊は玉城村に配備され、大隊本部が玉城国民学校に置かれ各地で陣地構築をした。玉城城址・糸数城址附近やアブチラガマの陣地構築もその頃始まったものと思われる。しかしこの部隊も12月に第32軍から抽出されて台湾へ移動して行った。沖縄本島南部の強固な陣地は7月から12月の半か年にかけて武部隊の構築したものであった。

 武部隊の台湾への移動によって沖縄本島の配備変更があり、知念半島に歩兵第 64旅団(石武隊)が配置され、玉城村内にも石部隊の独立歩兵第 15大隊(飯塚少佐)本部が玉城国民学校にあり、第 21大隊(西杯中佐)が知念国民学校にあった。この石部隊は北支山西省の治安警備についていたが、8月19日に那覇港に上陸している。この輸送船が和浦丸 ・対馬丸 ・暁丸で、これが玉城国民学校の学童疎開の児童が乗り込んでいた輸送船だったが、対馬丸だけが22日悪石島沖で遭難した。和浦丸に乗っていた玉城国民学校の児童は8月23日長崎に回航した。

 昭和 20年 2月 1日に配備変更があり、中頭地区の独立混成第 44旅団(鈴木少将)が石部隊に変わって知念半島に配置された。玉城村に独立混成第15聯隊(美田大佐)が配備につき、聯隊本部が玉城国民学校、第1大隊(野崎大尉)が玉城城跡附近、第2大隊(井上中尉)が知念国民学校、第3大隊(西村少佐)が前川に本部があった。知念村・佐敷村・玉城村の防衛隊は20年3月20日に独立混成第15聯隊の各大隊へ配属になり、沖縄戦の最大激戦地、真和志村天久安里シュガローフで壮烈な戦闘に参加した。

 アブチラガマは 3月 23日に空襲や港川沖からの艦砲が始まると美田部隊の本部となった。それまでに中に発電機も取り付けられ、道も溝も整備されていたと考えられる。美田部隊が首里周辺の前線に出て行ったのが 4月 27日で玉城村防衛隊員は 4月 29日頃松川地区の配備についた。約 1か月間美田部隊がアブチラガマで空襲を避けていた事になる。

 私は青年学校勤務中に玉城村役場から防衛召集を受け、2月 18日東風平村島尻郡記念運動場に集合した。沖縄本島の島尻郡全町村から約 3,000人の防衛隊員が集められ、島尻郡在郷軍人会長の訓辞があり、各部隊へ配属され、糸満・真栄里の海上挺進基地第26大隊と港川・志堅原の海上挺進基地第28大隊へ引率されていった。
    
    わたしは玉城村の防衛隊を港川に引率した。玉城村・知念村は志堅原の仁川(ジンガー)の上の民家に入った。3月 23日までは毎日特攻艇「マルレ」を秘匿壕から出し肩力搬送で泛水する訓練であった。秘匿壕は東地(アガリンジ)入口の山に掘り込まれ、第 28戦隊の「マルレ」は約100隻あった。3月上旬頃船舶隊長の検閲で全艇を奥武橋の下に並べてあるのを敵の飛行機に発見され、空襲をうけて殆んど沈没した。昼夜兼行で潜りの引上作業があったが引き上げたのは数隻にすぎなかった。

    4月 1日米軍が北谷・読谷山海岸から上陸し、港川方面からの上陸陽動がなくなると、海上挺進第 28戦隊も基地大隊も糸数・富名腰の岩山附近に壕を探して散開していたが、数日後アブチラガマに全員が入るようになった。入口の坂を下りた直下の天空の見える所でわずかに雨をしのぐ岩陰で、食糧が積まれた箱の上で昼中は寝ていた。ここでは糸数の住民が兵隊と一緒に入っていた。

    ガマの中には家も建てられ発電機もあり、電燈もついていた。第 32軍野戦貨物廠は津嘉山からアブチラガマに貨物を運びこんでいた。貨物の中には正月料理に使うカズノコ( ニシンの卵)の袋もあり、粉醤油・粉味噌が多く積まれていた。暗い洞窟の中には海上挺進戦隊の見習士官や下士官達がいた。この時一緒に慰安婦も混じっていた。炊事は日が暮れると糸数の民家を利用して1日分の飯がたかれた。昼はキビ畑に置いてある特攻艇の監視に出ている防衛隊員を巡って見ていた。

 富名腰の川崎病院の東横に「マルレ」特攻艇の監視哨の入る壕があった。しかしこの特攻艇も 4月中旬には全部敵の飛行機からの焼夷弾で焼きつくされてしまった。海上挺進基地第28大隊の防衛隊員も戦隊と共に4月 27日頃アブチラガマを出て、大里村大城城址の下に集結し、4月 29日に豊見城村高安の饒波川流域に移動した。高安のタングムイ(餞波川)には島尻郡各村の海岸からク リ舟が集められ、このク リ舟が特攻艇として海上特攻に使われ、豊見城城址の東側の石火矢橋(メガネ橋)から船舶隊の特攻隊が出ていった。

 美田部隊と海上挺進隊が 4月 27日〜29日に糸数アブチラガマを出た後、第27防疫給水隊が入ってきた。富里で開業しておられた大城幸雄軍医が隊長として入って居られた。5月になると首里前線から多くの負傷兵が護送され、アブチラガマは沖縄陸軍病院糸数分室となり、大城幸雄見習士官、西平守正軍医中尉もここで、ひめゆり学徒隊と共に働いておられた。

 6月 3日頃知念半島・糸数附近にも米軍が侵入し、負傷兵はガマから這い出て摩文仁方面へ行ったが、雨の中の途中の泥んこに事切れていた。終戦後も一部の兵と糸数住民が、このアブチラガマに残っていたようです。
                                     「糸数アブチラガマ(糸数壕)」(玉城村)から 
※(注釈)シュガローフ…那覇北方の丘の米軍名称。那覇進攻の最大の激戦地だった。

戻るトップへ