証言12

 防衛団長として
                                                                               新垣(30歳代 ・男性 )                     
 私は南部の警防団長で、空襲警報や解除の伝達をする役目であった。区長は助八氏だったので二人に責任をもたされていた。アメ リカ兵により家はガソリンをかけられ、どこもかも字全体が同時に焼かれた。それは三月頃であった。それまでは毎日艦砲が打ちこまれ、生きた心地はしなかった。アメ リカの軍艦はすっかり沖縄を包囲し、あきまもない位であった。

 喜屋武の海から那覇までつながっている状況がよく見られた。字の人はめいめいで避難壕を探してかくれていた。西川門の西の壕やアバサーガマ等に沢山入っていた。トルルシアラレーガマにも分散した。村からは山原(本島北部)に疎開させなさいと区長を通じてとくれいしていた。

    名城区の人は清喜が責任をもってつれていくようにいわれていたので、七二名と共に出かけた。年長者は仲ミ−ヂ小(屋号・以下同じ)のおぢいさんとメーミ−ヂ小のおばあさんであった。お年も七○以上で、歩くのが大変であった。

    嘉手納までは歩かなければならなかった。幼い子は徳メンスルの徳成君だったが、よく歩いてくれた。田港まで歩き、途中では、あちこちの小学校に泊った。夜昼歩き通しで、最初に泊ったのは、名護をこしてからであった。田港では澱粉工場をかりて泊った。最初はなかなか貸してくれなかったが、人の命を考えて強くお願いをして、やっと借りることができた。

    田港の区長さんはペルー帰りで、神谷という方であった。警察の方とも、たえず連絡をとっていた。疎開者は田港の近くのタイフーンにもいっていた。二カ所とも私がつれていった。内地への疎開は、宮崎へ行っただけである。

    戦闘中は字の人はめいめいでかくれていた。その間の毎日の食べ物は、イモと大根が主であった。夜になるとイモほりに行き、炊くのは壕の中であった。壕はウンザー(字伊敷の南)、トルルシ、アラレーガマ等で、字の人は殆ど全部で、他の町村からも来て三百人位になっていた。中城村から来た人もいたが、壕から外に出るのがこわくなり、栄養失調で亡くなった人も多かった。

    壕の中の水には、死体が沢山浮いていた。夜となり、井戸に水くみにいくと、ふらふらした人が手をさし出して何か食べ物をくれとせがむのもいた。死んだ人は、兵隊が土をかぶせるだけであった。玉城村からにげてきたという、女子青年は、ももに艦砲の破片が当り、大けがをして血をたらたらと流していた。

    九月まで壕にいたが、戦争の終ったことはわからなかった。部隊の解散命令が出てから、壕から出た。その頃は長男の清光もいっしょだった。壕の中に水が流れ込むと、自分の体で子供をかばった。その場の苦しさは人に語ることのできない程である。

    食事はイモ、大根、カボチャ等で、壕の中で炊くので煙はもうもうとたち、息がつまる位であった。妻はかねてから心脳病をわずらっていたので、余計苦しそうだった。自分は警防隊長という責任で、アバサーガマ、アラレーガマ、トルルシ等の壕をまわり、ウッカーガマに行く時、妻に会った。びっくりして「どうしたのか」ときくと「もう私には壕ではくらせない」といったので、徳前ンスルのあきやに休ませた。幸にそこだけは焼け残っていた。しかし妻の体はやせて大分衰弱していたので、元気をとりもどすことは出来ず亡くなった。その時三五歳であった。

 その頃カニヤーグンの中には、沢山の避難者が艦砲にやられていた。死体はナベの中やカマドの中にも多数あった。その南の山の中では、東リウンスル小の娘、イーウンスルの樽の妻、樽一の妻、カマー川門の娘、三男新前盛の幸五郎の妻、徳前ウンスルの娘、西徳前敷のお母さん、南川門の喜正の妻、前ン前門小の娘などが亡くなった。

    またそこには東ウンスル小のおぢさん、おばさん達もおられたのでウンスル小の麻助さんは見舞にみえたようだがその後の行方はわからない。私の妻が亡くなった時は、壕から出て来た人達が、葬式に参列しお墓へおくった。まだ時々艦砲による砲撃もあるので、葬式も艦砲の合間に行なった。

    私も友軍から追い出されたこともあるが、助八区長はアパサーガマから友軍に追い出されていた。私は三男南川門の西の壕にいた。友軍から「出よ」といわれたが、「一体、人民が出るべきか、兵隊が出るべきか」と反抗したので、兵隊はあきらめたのか、帰っていった。

    三男ウンスル小の亮造氏はジャナバルの畑で亡くなったとか聞いた。苦しかったことは飛行機の銃撃で追われている時であった。小禄の飛行場から逃げて来た日本兵も沢山いた。隊長が壕を探してくれともいっていた。

    道を歩いていても、機銃でやられることもあった。皆が敵機からみつからないようにするのが精一杯であった。夜は照明弾で明るくするので、道にも出られない。照明弾は消えるとすぐ次を打出すので暗くなる間はない。しかし照明弾を打つとそれについている絹製の落下傘があるので、その絹の布をとりたいために砲弾の中に出ていく人もあった。

 米兵に会うのは何よりもこわかった。会いそうになる時はすぐかくれた。米兵はかくれる者には何もしなかった。

    アバサーガマではお産する人もあった。お産は誰もせわする人はいないので、生きるか死ぬかは運にまかすだけであった。戦争中の病人も何の治療はなく成りゆきにまかす外はなかった。砲弾の破片が体に入った時は小刀で誰かがえぐり取った。三男新伊礼のかまどの破片は私がカミソリで切りとった。

    私は防衛隊長ということで何時もアルコールは持っていた。さらに私は警防団長から手留弾を五、六個もたされていた。いざという時はこれで自殺すること、また住民でも必要の時はわたすようにといいつけられていた。その外六、七人分の毒薬も持っていた。

    息子の清光は百名にいたが彼にもやり、もし父が帰らない時はこれを飲むようにと伝えていた。その時は新西蔵ン前小のタツ、栄吉、栄孝もいっしょであった。その薬は後で百名で埋めた。新西蔵ン前小のおぢさん、南蔵ン前小のカナ、西新蔵ン前小のタルさん等は皆手留弾で亡くなった方々である。

    米兵の捕虜になると、どんな事になるかとこわくなり自殺をはかったものである。実際に自殺しそこなった人が、米兵に射殺されたのもいる。飛行機から逃げて来た兵隊も、ケガで苦しみ死なしてくれとたのむ人もいたがことわった。その頃のニュースは「南洋では皆玉砕した」とか「家族が海に落ちて自殺をはかった」とかいうことだけで、皆の玉砕をすすめているようなものばかりだった。

 捕虜になったのは、ウツカーの壕を出た時であった。始めは玉城村の百名につれていかれた。そこでは今まで兵隊であったかどうかを調べていた。二世が調ペアメ リカ兵は銃剣を持っていた。新西蔵ン前小の栄吉や栄孝や息子の清光もいっしょだった。東前前敷の兵太郎は屋嘉の収容所へ、源栄達はハワイへ連れていかれた。

    私は百名から家族を尋ねて山原の二見にいった。山原に清次とトシ子は疎開させてあった。その頃、字新垣出身の金城政紀氏は、二見で役所の職員として働いておられたので「南部から来た疎開者は今どのへんでしょうか」とお尋ねすると、大体どこそこだろうと御指示を受けた。二見には喜屋武、真壁等の村民が、各郷里の名をつけ、グループをつくっていた。

    子ども等をみつけ、連れて帰ろうとしたがなかなか許可がなく、後は責任問題となって、やっと連れ帰ることができた。玉城村の百名へ行き、配給品を受けた。毛布やイモ等でイモは沢山あったのでイモクヅも作った。

   百名から郷里名城に来てからは、家造りにはげんだ。建築材は米軍からの配給のトーパイフオーで、キチ小やフチブクは山原へ行き、イモと交換して持ち帰った。田港やタイフーンにも行った。ウシーブクにする竹は、山にある雑木でまに合わした。伊礼小のおぢいさんは、家ふきの名人であった。

 毎日の食料は配給品と畑に残っているミ−ザーンムであった。

                                            「なあぐすくむら誌」(糸満市字名城)から

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