証言11

農兵隊での山暮らし
                                                                           大城(男性 ・16歳)       
 農兵隊に入隊

 僕は昭和19年(1944)3月に高等科を卒業した。卒業からどれくらい経っていたかは忘れたが、いつも通り畑で草刈りをしていると、母が僕を呼びに来た。何ごとかと思って家に戻ると、青年学校の永吉盛事先生が来ていて、「今から農兵隊に入りなさい」と言う。僕は事情もよく分からないまま、小さな風呂敷包みを片手に、その日のうちに先生に連れて、与儀(那覇市)の農業試験場に向かった。
   試験場には島尻郡の各村から大勢の人が集まってきていた。兼城村(現糸満市)からは武富の同級生の添石良幸や、一期後輩の照屋の前川善一(旧姓大城)、座波の大城幸栄、金城儀良、嘉数の島袋盛孝、武富の大城盛昌と東泊徳貞、阿波根の徳松安吉が来ていた。試験場で一泊して、翌日、徒歩で名護に向けて出発した。途中、野嵩石川に泊り、三日目に名護に着いた。
 
 隊での暮らし

 農兵隊の本部は、名護から二見に抜ける途中の東江原と呼ばれている所にあり、山を切り開いて茅ぶき長屋の宿舎が作られていた。

 隊は四つの中隊で編成され、僕ら昭和4年生は第1中隊に、1期下の人たちはそれぞれの出身地ごとに、国頭が第2中隊、中頭が第3中隊、島尻が第4中隊に組織された。指導員は満州の義勇軍から帰ってきた人たちや農林学校の出身者だった。

 隊では、毎朝5時半にラッパの合図で起床し、全員で体操をした。満州帰りの指導員がー緒の時は、体操の掛け声は「一、二、三、四」(イー・アール・サン・スー)と中国語だった。その後、食事を済ませ作業をした。作業は農家の手伝いの他に、まだ完全でなかった宿舎作りや、道路整備などがあった。朝起きて運動をして作業に行って寝るだけという毎日の繰り返しだった。山の中では食事が十分でなかったので、作業をしていてもショベルを持つ手にカが入らないこともあった。

 入隊後しばらくして、第1中隊はいくつかの小隊に編成され、僕は車輌隊になった。車輌隊は馬車で物資を運搬するのが主な役目だったが、その馬車がなかったので、与儀の試験場に馬車を取りに行った。

 与儀からの帰り、恩納村の海岸沿いにあった高射砲陣地の近くを通った。上は網で偽装させてあったが、米軍は気が付いていたのか、僕らが手前まで来た時に、飛行機から弾を撃ってきた。大慌てで逃げ、辛うじて隊の本部まで戻った。

 数日後、馬車に木炭を積んでまた与儀まで行き、帰りに米を運んでくることになった。馬車で那覇に向かったのは夜で、あちこちから照明弾が上がっていた。金武まで来ると橋が壊されていて、馬車で進むことができなくなっていた。僕らは川の手前でどうしようか迷ったが、結局、木炭を肩に担いで、川の浅い所から渡った。

 隊の指導員の一人に松堂嘉三さんという人がいた。この人の家が金武だったので、僕らは途中、松堂さんの家に寄り、ご飯を食べさせてもらった。その時、松堂さんの家族から「米軍は中部に上陸し、もう石川まで来ている」ということを聞いた。それで僕らは急いで名護まで引き返した。名護湾が見える所まで戻ると、沖には米軍の船がいくつも並んでいて、80隻ぐらいまで数えることができた。

 隊が解散して

  第 2中隊と第 3中隊は、本部を離れてそれぞれで活動をしていた。本部には僕らの第 1中隊と島尻出身者の第 4中隊だけが残っていた。第 4中隊は島尻に向かう途中、石川で空襲に遭い、僕ら同様引き返してきていた。

 本部に帰ってからは、毎日何もせずただ隠れるだけだったので、団体生活を解消しようということになり、持っている食糧を分配した。隊が解散した後も、食糧のある間はみんな一緒に避難した。このころだったと思うが、浦添出身の隊員の一人が、頭が変になり、独り言を言うようになっていた。

 食糧がそろそろ尽きてくると、僕らは気心の知れた者同士で行動するようになった。

菓子をくれる米兵

僕は新垣良英ら7,8人の仲間と一緒に、東江原の近くに、丸太と竹の葉で簡単な小屋をたてて住んだ。

 避難した山の中には日本の兵隊もいた。彼らから得る情報は「島尻は安全、島尻は勝っている」ということだった。僕らは南に行く途中を引き返してきたから、信じるわけにはいかなかったが、真に受けて島尻に逃げていく避難民もいた。

 食べる物がなくなると、麻袋を持ち山を降り、羽地村の稲嶺や真喜屋辺りに芋を掘りに行った。途中で米兵に会うこともあったが、僕らを捕まえようとはしなかった。逆に背の低い僕を、子どもだと思ったようで、「ボーイ、ボーイ」とわざわざ呼び止めて、お菓子をくれる米兵までいた。農兵隊の仲間には体の大きいのもいたが、敗残兵と間違えられると困るので、その人たちは食糧探しには行かなかった。

 山に帰れない

 仲間 3人でいつものように食糧を探しに行く途中、多野岳頂上で50人くらいの米兵に出会った。笑顔で「ハロー」とあいさつをして、米兵のそばを通り抜けて稲嶺に向かったが、近くを通った避難民から「今日は山の避難小屋には帰れないよ。夜、音をたてると日本兵の斬り込みと間違えられ、米兵に撃たれてしまうかもしれないよ」と注意を受けた。

 山を見回る米兵は、いつもだと夜になると山を降りるが、その日から山を降りないで野営をするようになった。米兵は山から降りてくる人には、何も言わなかったが、山に入っていこうとする人がいると、呼び止めて山に入らせないようにしていた。その晩は多野岳の麓の谷沿いで、麻袋に入り一晩明かした。多野岳の頂上の方から、米兵の話し声や銃声が聞こえてきてなかなか寝付かれなかった。

 翌日になっても、米軍は引き揚げる様子もなかった。仕方なく、僕らは久志三原から汀間を越え、瀬嵩に行った。

 瀬嵩は避難民が集まっていて、避難民には米軍から食糧の配給があった。配給をもらうには避難民として登録しなければならなかったから、僕らも登録をした。登録は「3人で山を降りてきました」というような簡単なものだった。

 ここでは作業に行くとお握りがもらえたので、初めのうちは行っていたが、後からは「あんたはまだ小さいから駄目だ」と言われて行けなくなった。

 瀬嵩の生活に慣れても、山に残して来た仲間のことが、ずっと気になっていたので、山小屋に行ってみた。仲間に「僕らは今アメ リカの食糧配給を受けて生活している。あんたたちも山を降りなさい」と説得した。仲間は僕の言葉を信じ、一緒に瀬嵩についてきた。

 家族との再会

 その後、僕は二見に移り住んだが、二見にいた知り合いから、家族は古知屋の収容所にいるらしいと聞いたので行ってみた。家族と再会でき、僕はそのまま古知屋に住んだ。兄だけが屋嘉収容所に入れられて、その時は会えなかったが、うちの家族はみんな無事だった。父が屋敷の側に壕を掘り、家族はずっとその壕にいたらしい。

 昭和 20年(1945)8月15日は古知屋にいた。アメ リカ軍は戦争に勝利したと言って、夜、曳光弾を撃っていた。ああ、戦争はこれで終わったのかと思った。

 後から思うと農兵隊に参加したのは、山原に疎開したようなものだった。それで命拾いできたのかも知れない。それでも、戦争中は食べ物がなくて、死ぬか生きるかの苦労を味わった。とにかく戦争のような馬鹿げたことは二度とやってはいけないと思う。
                                             「糸満市史 資料編7」(糸満市)から               

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