証言 1

ガス弾で両親を失う

                                             佐久本(女性 ・二十二歳)
    首里の自然壕内で

 わたくしは、戦争前、赤田町女子青年団の世話係のような役割りをしていましたが、十九年に首里市役所に臨時で入り翌年五月首里が艦砲や空襲でやられた時には、現在崎山のテレビ塔のあるあの下の自然壕にいて、首里城の焼けおちるのをみました。両親は壕に投げこまれた米軍のガス弾で死亡。

    わたくしは母を抱いて倒れていたのを、同じ壕の人々に引き離されて、助けられ、崎山の壕の近くで捕虜になりました。捕虜になった後は、宜野湾の野嵩の収容所で看護婦として働き、豊見城の真玉橋の収容所で保母に、また首里に移住が許されてからは、赤田町幼稚園の保母をしました。

 しはらくして城南小学校ができて、幼稚園が吸収されたので、自動的に同校幼稚園の保母になり、やがて兄弟たちが復員して、「ドウチュイムン」(独り者)であった佗びしさとも訣別して、兄(照屋寛善)の診療所で看護婦として働くようになりました。

    兄弟から″頼みます″と言われた両親を、むざむざ目の前で失い、たったひとり、生き残りたくはなかったが、助けられた幸せをいまは感謝して、わたしの沖縄戦記を綴りたいと思います。

 病父、母の世括で家に残る

 首里高女を卒業したのは、昭和十五年のことです。友だちは上級学校に進んだり、就職していて、わたくしも洋裁を学びに、上京する予定でした。しかし父は神経痛で足が不自由。母も病弱で、家業の酒造業は忙しく、長男代理の次兄が家業を継ぎ、「どうか父母の世話をしてもらいたい」と頼まれれば、いやとは言えません。

    家事の合い間に父の話し相手になり、ちょうど赤田町女子青年団長さんが結婚されたので、わたくしが年長ということでしょうか、その世話をすることになりました。次兄は甲種合格でしたが、その頃は志願してもクジに外れると出征できず、熱血漢でしたからその口惜しさを、大政翼賛会少年団長、赤田町男子青年団長として、がんばっておりました。

    首里十二ヵ町の青年団で赤田は何事によらず優秀な成績をあげ、町の人々に喜ばれていました。
防火訓練と暁天動員(早暁、かけ声も勇ましく走り、畑を耕しにいく)が日課です。女子は十八〜二十五歳までの未婚者が構成員で、三十人近くおりました。やがて次兄が応召、帰還後再度応召して北支へ行き、四番目の兄は医学校から南方へ従軍しました。昭和十九年の初め頃です。

    伊江島の部隊にいる従兄が訪ねてきて「佳ちゃんはこのままだと徴用ですよ、他県の軍需工場にやられると、お体の不自由なお父さんの世話ができないでしェう。大急ぎで、近くに就職しなさい」と教えてくれました。
    ちょうどその頃首里に日本軍がたくさん入ってきて、壊掘り作業がさかんに行なわれ、市役所はその対応で忙しかったので臨時採用で入ることができました。壕掘り作業には、婦人たちが動員されてザルで土運びをしており、わたくしはそのための各町内の名簿つくりの仕事をしました。

 市役所は今の琉大(現首里城)の男子寮(現芸大)の向い、琉大体育館の敷地にありました。首里高女後輩の知念恒子(現・浜元)照屋文子(故人)さんらがおられ、正直の話、若い娘には家にいるよりたのしいものでした。市長は仲吉良光氏でした。戦局は厳しくなり、誰も口には出しませんでしたが「いつまでこうして役所に来れるか、今日が最後かもしれない」という胸の中だったと思います。

 赤田、崎山、鳥堀の人たちの避難場所は上の毛の自然壕(首里琉大農学部敷地)で那覇が火の海になって、焼けおちるのをここでみました。いよいよ明日は首里。もうおしまいだとみなで言い合い、泣いたりわめいたりしていましたが、弟が「次兄の子供たちを山原(本島北部)に避難させないといけない。いますぐここを出て行ってくれ。両親は自分が見る」といいます。

    大学二年の弟は、二十一日に竹部隊へ入隊が決定して、帰って来ていたのです。後ろ髪ひかれる思いはしますが、とにかく四歳と三歳の子らを、山原(本島北部)に避難させなければと追い出されるようにして、兄嫁と二人でおんぶして、夜通し歩きました。着のみ着のまま何も持たずに、ひたすら歩くだけです。道は首里や那覇から逃げのびる人でいっばい。村村で婦人会の人たちが、にぎり飯を渡してくれました。

 辺土名から首里の壕へ戻る

 四日めに辺土名につき、小学校で一週間ほど起居しました。村の人たちが毎日、おにぎりにカラスグヮー(エイの稚魚の塩辛)をそえて、持って来て下さいました。首里が何ともなかったときいて、弟は入隊した頃だし、父母が案じられてなりません。わたくしだけ帰ることにして、首里へむけて歩いていると、軍のトラックがきたので事情を言って乗せてもらい、壕にもどりました。弟は前日、壕の中で両親と水杯を交わして出征していたのです。両親はわたしの姿をみると同時に泣いているので、私はヤソバルにいったことが、とても悔やまれてなりませんでした。

 兄嫁は、それから四、五日して、子供たちを連れて帰って来ました。これからはいつなん時、大空襲があるかわからないというのでわたしたちは、家から近い崎山の自然壊に親せきの人たちといっしェに避難し、時々家にいって炊飯したり、必要な品々をとりにいったりしました。家には日本の兵隊さんたちが住んでいました。 壕の近くに間借りして、父はそこに住んでもらい、警報が鳴るとその家の人とわたくしで、父をモッコ(縄で編んだ籠)にのせて担いで壕に移しました。

 食糧配給の名簿づくり

 市役所業務は依然続いており、わたしの仕事は那覇から首里の各町内にきていた大勢の避難者の食糧配給のための名簿つくりです。

 こうして十月が過ぎようとする、ある日、大阪の陸軍病院から次兄の危篤をしらせる電報が届きました。大阪にいる三番目の兄が面会にいったところ、甲種合格、頑健な体格の次兄の面影はどこにもなく、人違いだと思ったそうです。兄は北支から中支に行軍で移動の途中風土病に罹り、内地に送還されたのです。兄弟抱きあって泣いたそうです。兄嫁と二人の子供は″面会即疎開″ということにして、軍用機で行きました。

 切符がなかなか手に入らず、飛行場に出入りする知人の計らいで、極上の酒を一斗あげて、やっと手に入れたのですが、残念なことに一日遅かったそうで、兄はもうすでに亡くなっていたとのことです。

 年があけて、三月になってからは、今度こそもう役所の業務も終りに近いのだと、ひしひし感じられるようになりました。わたくしたちには何も話がありませんでしたが、上司の間では書類を役所の壕に運ぶことや、非常時ち出しなどの連絡が、こまかにとり行なわれていたようです。

 お彼岸のごちそうもできあがってさあ出勤しようかというとき、首里は突如、空襲にあいました。日にちはとうしたことか、憶えていません。わたくしは、ごちそうのお重をかかえると、父のいる家に走り、親せきの人と一緒に父を壕に移しました。走っている時、敵機が自分を狙っておいかけてくるようにみえて、こわくてなりません。走りながら、首里城が焼けているのがみえました。

 首里の壕に残る

 自然壕の中には、生活用品を運びこみ、親せきの人十五人が入っていましたが、ある婦人の連れた子供が二人よほど怖ろしかったのでしょう。泣き叫ぶので、婦人の兄に当る当間の小父さんが、みなさんに迷惑をかけると気がねをしていました。その婦人は「それじゃあ、わたしは島尻へいきますよ」と、出て行きましたが、四歳と五歳の子ども二人は途中で亡くなったそうです。

    小満茫種の季節で壕の中に雨が流れこみ、弱かった母はとうとうゼン息になりました。家は幸い焼けなかったので、わたしは空襲の合間に走っていってみそや米を取ってきました。しかし四月半ばの艦砲の時には首里はほとんど焼けおちてとうとう自分の家もすっかり炊けてしまいました。ひどい地響きで、もうおしまいだ。木っ端みじんになるのだと、わたしたち十二人、抱き合って泣き叫びました。

    砲撃で壕の入口がふさがれて、生き埋めになるところを、隣の壕にいた石部隊の人たちが掘りおこしてくださいました。大阪の人たちからなる、隣の壕の兵隊さんたちは、三月の初め頃から壕掘りや高射砲台を作っていて、わたくしたちの壕とは家族とも、友だちともいえるような、つき合いをしていました。わたくしたちの壕にはわたくしも含めて、ヨシちゃん名の娘が三人おり、″三人ヨシちゃん″と呼ばれていました。

     「据えつけたから、見に来てよ」というので三人で行き「立派だ、立派だ」と誉めると一発撃ってみせたのはよいが、おかえし弾は二十も三十も飛んでくる有様で「逃げるが勝ちだ」「逃げるが勝ちだ」と笑いながら逃げかくれするようすは、怖いなかにもおかしく兵隊もわたしたちも笑って、胸をなでおろしたことでした。兵隊壕はコ字型で、二階風でしたが、完成しないうちに入っていました。

 壕が崩れて、とほうにくれていたわたしたちは、すすめに従って、兵隊壕に移り、家族のようにして、過ごしました。五月二十七日中に南下するよう命令が出たということで、兵隊さんたちは、わたしたちに同行するよう、すすめました。しかし、父母が歩行できるわけはないので、「親子三人はここに残ります。住みなれた場所で死にたいのです」と残留を希望しました。

    ところがこれには、同じ壕にいる人たちが承知しません。「それなら自分たちも残るよ、なんで親せきのあなたたち三人を残していけるね」といいます。兵隊さんたちは「お父さんをモッコで担いでいこう。自分らがやるから心配いらない」といいます。

    わたくしたちは「そんなことで、みながやられたらどうするのですか。それこそお国のためになりません。どうか他の人たちを連れていって下さい」と強引に残りました。ところが親せきの人たちの誰ひとり動こうとしないので、わたしたち十二人と兵隊さんたちとは互いに、涙で別れました。その後、あの兵隊さんたちがどうなったかはわかりません。

 兵隊さんたちが去ると、不思議に空襲も弾音も止み、別世界の静けさです。近くの井戸に行ってみると、首里城の方に人影が二人、三人とみえる。「日本が勝って、戦いは終ったのかね」と思いました。父に話すと「アメ リカ兵かもしれん。絶対に住民は殺さないから、ここに来たら壕から出て、手ウサーシ(合掌)ヨーヤー」と父はいいました。

 ガス弾で父母死す

 あちこちで敗残兵を捜しており、わたくしたちの壊の入口には、兵隊さんたちが使った日本軍のスコップ類が置いてあったので、何の呼びかけもなくいきなりガス弾を入れられました。五月三十日か三十一日で、ロ−ソクをつけて奥の方でアルバムをみて楽しんでいる時でした。ゴホゴホせきこんで、今の音なんだったろうと言ううちに、また投げこまれて、三回くらい煙があがりました。

    わたくしは母を抱いて倒れて、意識がもうろうとするのが判りはするが、ものが言えない。上の壕に逃げた小母さんたちが「もう大変。あの三人つれてこないと、わたしたちの責任よ」と二人のヨシちゃんをよこしました。わたしは母を離すまいと、二人のヨシちゃんの手を振り払うが、とうとう上の壕までひっはっていかれました。隙をみて父母の倒れた所にかけ戻ると、壕の支えにしてある電柱に火が移り、わたしは父母の傍に行こうとするが、炎と煙で父母はみえません。

 それからは出れば撃たれるので上の壕に、四日間閉じこもって壁面を手でなでて、それをなめ、残っていた味噌をなめて、生きました。ひとりのヨシちゃんは幼時期に母を亡くし、さらにもうひとりのヨシちゃんは、わたくしの父母と一緒に母を亡くし、若い三人はほんとにみなし子になってしまった。

    「こうなっては生き残るのが恥ずかしい。南部へいって手榴弾をもらい、兵隊さんたちと行動を共にしょうね」と誓いました。壕の上ではアメ リカ軍が陣地を作っているので出られません。夜は照明弾でやはり出られません。いっそ昼間がいいだろうと決めて隙をうかがっていると、日本軍がいると思ったのか出口を石でふさがれてしまいました。一晩待って十九歳のヨシちゃん、二十一歳のヨシちゃん、わたしの順に並んで「はい、出ますよ」という時に、当間の小父さんが、わたしの前に割りこんだ。不平を言ういとまもなく、前の三人はとび出しました。
    
    「ヤラレタ!」「姉さんサッタルムン(やられた)」大声をあげるのとバラバラーと、三人がやられて倒れるのがいっしょで、私たちは米兵がいまにも入ってくるのかと、ふるえていました。

    半時間ほどして人が入ってきたので、「アキサミヨー(大変だ)アメ リカーだ」と、わたしたちが泣き声をあげると「イエー、イッターアビラソケー、ワンルヤソドー(お前たち騒ぐな、私だよ)」「ヨシちゃんター、タイヤ(二人は)、機関銃ンカイサットンドー(機関銃でやられたぞ)」と当間の小父さんの声です。小父さんはやられたのに、どこも痛くないのが不思議だったが、動くと撃たれるのでずっと倒れたままでいたのだそうです。体を調べてみると、市役所の書類を詰めたカバンの中で、弾が行き止まりになっていました。

    小母さんたちは、わたしがやられるところを、当間の小父さんが割りこみ、おかげで助かったのだと言い、父母の御加護だ、元気を出して生きなさいと励ましてくれました。しかし、わたしは父母も、二人のヨシちゃんも相次いでやられ、どうせ順番待ちだと、口をきく気にもなりません。

 捕虜になりレーション食べる

 六月一日の朝六時半頃、やられるかも知れないと覚悟しながら壕を脱出すると、人影ひとつ見えません。識名へいく道に下りると、茅ふき屋根がぽつんぽつん残っていました。その中の屋宜さんという家に入りました。識名園の方に、たくさんパラシュートが降りるのがみえるだけで、物音ひとつしません。米兵が五人、十人と銃をかついで通っていきましたがわたくしたちが、ひそんでいるのをみつけて、上がりこんできました。

     二十五歳の婦人とわたしは「年寄りフゥナー(年寄り風)しようね」と話しあい壕うから持ち出した母の着物を着て、ナービのヒング(鍋のすす)を顔に塗っていました。兵隊たちは「ハーイ、オジイサン、オバアサン元気デスカ」といい、チョコレートや菓子をくれるので「おかしいね、殺さんね」と思いました。米兵は「あっちの方は戦争だよ。わたしについておいで、食物も寝るところもあるから─」と手まねで伝えます。

    御茶屋御殿の下の道を通り、「ナゲーラ」の方へつれていかれましたが、今のコソポスト工場のあたりや城南小学校の方も、見渡すかぎり盃を伏せたようなものがあり、それは米軍のテントだとわかりました。与那原街道は、日本軍の戦車と違って大きな米軍の戦車やら、兵隊がたくさん通って、その傍を首里からの捕虜がぞろぞろ歩きました。病人と老人ばかりでした。「ナゲーラ」でレーショソを出されました。みな「やっばり殺すつもりよ。毒が入っている」といって食べません。

    兵隊が食べてみせ自分の水筒から水も飲ませるし、ポケットからタバコも出してくれました。わたくしたちは自分の壕から米をとって来て、お粥をつくり、食べないうちに、連れられて来たので、おなかがすいていました。コンビーフを口にいれて、アメ リカはこんなにおいしいものを食べて戦争しているのかと感心しました。

    どうせ満腹にさせて殺すのだろうと思いながら、わたしは次兄が東京から送ってくれた、しやれたワンピースを屋宜さんの家に、おき忘れてきたことを残念に思っていました。

 トラックで鳥掘−師範第二寄宿舎前(現首里中校)平良−城間−野嵩の順で通り、野嵩に降ろされました。ジャズと横文字看板とテソトで外国に運ばれたような気持ちでした。住民はカワラ屋に住み、配給の服を着ていましたので「あれ珍らしいね.殺しはしないね」と思いましたが、同時に「ドウチュイムソ」(一人者)になった思いがひしひしとしました。そこでは壕から出た九人そのままのグループがいっしェに住むことになりました。七月まで二カ月いて、わたくしは南部から運はれてくる住民の看護婦になりました。破傷風や栄養失調で、毎日たくさんの人が死亡し、担架で運んで穴にひっくりかえしていました。

 井戸の傍にはシラミのわいた人たちが集って洗髪をしていましたが、ある日その中に、田港の従妹と叔母が南部から捕虜になって、そちらへ来ているのとばったりあって、わたしたちは抱きあって泣きました。従妹も病院で働くようになりましたが、わたくしの方はバラチフスで高熱と下痢が続き、いよいよ助からないらしいというので、アメ リカ人の軍医や二世の兵隊や看護婦たちが慰問のうたをうたってくれました。「愛染かつら」と「東京ラブソディ」をみんなで並んで歌ってくれました。従妹と叔母がどうしてもひきとりたいというので、わたくしは三月以来生死を共にしてきた方たちと、はじめて別れてくらすことになりました。

 大浦で配拾物資の業務を

 叔母は松尾出身者の収容所にいました。叔父は看守で儀保に刑務所の宴があり、囚人を引率してそちらに避難していたはずですが、消息がわかりませんでした。ある日、無事で瀬嵩にいるときいて、米軍にお願いしトラックにのせてもらって捜しにいきました。大浦に移動したあとだったので、大浦にいき叔母も呼んで、大浦で二年ほどすごしました。

    その間役所に勤め、配給物資の業務にたずさわりましたが、給料はチョコレートです。配給も御飯代りにチョコレートを一箱渡すありさまで、夏など溶けて流れ出すので、大浦の海にほうりこんでいました。Cレーショソ、罐詰、チーズ、バター、トウモロコシも配られるようになり、たまには米の配給もありました。

 真和志村の人は豊見城、真玉橋に移動があり、わたくしたちも移って、一年半すごしました。ワラぶきの家がたくさんつくられ、ここには保育所もあって、従妹の重子さんとわたくしは保母をいいつかり、オルガンもハーモニカもないので手拍子と歌声だけで保育にあたりました。子どもたちも私達も服装はHBTの更生服。重ちゃんと私は、フレアースカートなどを手縫いして、アップリケをしておしゃれをたのしみました。

 城南幼稚園の保母に

 その頃、首里には人が住んでいると聞いて、じっとしておれず、母方の従妹と二人でこっそり、識名を越えて見にいきました。黒ん坊が通ると、潜んで用心に用心して首里にたどり着きました。わが家の屋敷跡に三、四世帯の人がテントを張っています。それをみると早く首里に帰りたくてたまりません。赤平の嘉手苅の従妹を訪ねると、両親の遺骨をドラム罐に収めてくれたという話です。涙が出てなりませんでした。引揚著のトラックが師範(学校)の寮跡(現首里中校あたり)にとまり、首里方面の人たちがここで降りることも、聞きました。わたくしもここで兄たちを待ちたいと思い、真玉橋に戻ると、田港の叔母に相談しました。

 嘉手苅の家に世話になるなら、よいでしょう。娘をひとりで置くわけにはいかないと、周囲の相談がまとまって、わたしは赤平の嘉手苅の家族といっしょになりました。頼まれてここから赤田首里殿内の保育園に通って保母をつとめ、城南小学校ができて、そこの幼稚園に保育所が吸収されたので、同幼稚園の職員になりした。兄弟と再会することができたのは幸運でしたが、失ったものの大きさ、辛さにはお互い声もありませんでした。

 わたくしの娘たちは、あの頃のわたくしの年齢に届こうとしています。わたくしの語る戦争の話を一心に聞いてくれます。
                                                             『沖縄の慟哭 戦時編』(那覇市刊)


                

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