3 住民の避難編

(1)「県史9巻」から
(首)小便で消毒するといいという話でしたのでね、「私は自分の小水を布切れに浸して、それで拭いて上げたりしていましたね。傷はマッチぐらいの大きさでしたけど、深い傷で、肩の骨が見えていました。その中に入りこんでいる蛆虫を、私は手でいちいち取っては捨てて、小水で拭いてやったりしたんです。(1)

(首)私の側にいた男の子はどうなったかと思って、見廻したら、石垣の内側にあるバナナの木の大きな葉っぱの上にね、左右に別れた葉っぱの付根の上に、ぶらさがって死んでいたんです。その男の子の着物はぼろぼろになってね、その顔は真っ赤に血だらけになって、目も鼻もわからなくなっていました。(1)

(首)伯母も逃げるつもりで赤ちゃんを地面に置いたらね、ギャーと泣き出したんです。あ、まだ生きていると伯母は言って、また抱き上げて、すぐにそこから逃げたんですよ(1)、
(首)メンスはすでに止まっていましたね。私の場合は、敗戦後、約一年はなかったですね。食生活がひどく欠乏していて女の人たちは、みんなそのようでしたね。(1)

(真)歩いて行ったら、民家らしい灯りが見えてきたさ、その灯りを頼りにそこへ行ってみたら、民家から男の人が出てきてね、なんでこっちに来るね、と怒られて追い返されてね。もう一軒、灯りぐゎのある家があったから、尋ねてみたらね、男の人が出てきて、大変、こんな夜中から来て、見つかったら米軍にこっちまで殺されるから、早く行きなさい、あっちの方に行きなさい、と言うたさ。こっちも食べものがなくて、米軍の洗濯ぐゎをして、食糧を貰って食べているのに、今に大変なことになる、ほんとに米軍に見つかったら殺されるよ、早く行きなさい、とまた追い返されてね。(7)

(那)煙が立たないようにするためには、炭をつかわねばならない。わたしは余所からコンロを借りて来てね、焼け跡へ行って、炭をいっぱい拾って来る。それでその炭を燃やした。(8)
(那)波平にいた頃からは、しょっちゅう攻撃されて、煙が出ているから、その時は堂どうと火を焚いて飯を炊いていましたな。(8)

(南)わたしの後の二人はそこで即死。一人は大声で、天皇陛下万歳を叫んで死んだんですがね。(3)
(南)それで、わたしは、それじゃわたし一人やろうといって、わたしは手榴弾の信管を抜いて、穿いているのは地下足袋でしたがね。地下足袋に手榴弾の尻をつついて爆発させようとしたら、これが故障していて、爆発しないんですね。(3)
(南)若い女らしいが、ちょうど胸から上は全然ないんですがね、真白いパンツをつけたままですね。われわれが通る道のすぐそばに倒れておるんですから糸満から国吉へ行く坂道のところでした。(3)

(南)壕があったのでそこに入ったんですね、そうしたら抱いている赤坊が泣くもんだから、口を塞ぐつもりなのが、鼻をおさえて、窒息させて死なしてしまったことがありましたがね。(6)

(東)石垣の隅や小さい壕に、塊っている人たちと一緒に隠れようと思って行くと、お化みたいな人、鬼みたいな人、とみんなから嫌われましてね。あんたたちはどうせ死ぬんだから、あっちに行ってちょうだい、と避難民に言われましてね。(1)

(具)その子は、「おっかあ、おっかあ」と泣きながら、その家の前まで何度も近寄ってきましたけれど、そのたびに避難民たちはその子を追い返すんですよ。その子の泣く声で、敵に感ずかれて爆弾がくると困るというわけで、「あっち行かんか、あっち行かんか」と叱りつけていました。しまいには、その子は泣きながらどこかへ行きましたけどね……。(4)

(具)十六歳ぐらいになる少年をですね、その子はまだ死んでもいないのた、肉親らしい人たちが二人がかりで、その子を道の側の畑に埋めようとしていたんですよ。その子は無言で、いやがってですね、足で土を跳ねのけていましたよ。その子は腹のあたりを大怪我していたようです。その様子を、ハワイ帰りの部落の小父さんも見てですね、怒鳴ったら、その子は半分土を被せたまま放ったらかされて、肉親らしい人たちは逃げて行きましたけどね。(4)

(具)生きている四名も今に死ぬかもしれず、三日三晩、シーバイ(小便)を飲んで暮らしましたよ。(7)
(具)私が運ばれたところは真壁でした。そして真栄平の山部隊のクラガーという壕に入ったわけです私は自分の傷口から蛆虫がわいたのを発見して、ほっとしたんです。そこでは次々と負傷兵が死んでいきましたね。沖縄出身の若い兵隊たち三人は、揃って破傷風にかかって、熱を出して死に際に「アンマー(母親の呼称)よ−」して死んだんです。ヤマトンチュ(大和人)でもですね、天皇陛下万歳と叫んで死んだものはいなかったですよ。たいてい嫁の名か「お母さん」と言って死んでいましたね。ある兵隊はね、死に際にね、「中隊長、部下をもっと可愛がれ!そんな中隊長おるもんか……伏せえ、伏せえ、伏せえ!」と大声で叫んでから死ぬものもいましたよ。ただ、水が欲しい水が欲しいと言いながら死ぬものもいるし、兵隊たちは次々とさまざまな死に方をしていましたね。(10)

(具)看護婦がですね、薬と消毒液だかと間違えて、病人につぎつぎ注射してしまって、二十名ぐらい死にましたよ。行くときには元気で行った人たちが、薬品の知識もない看護婦に注射をうたれて、帰るときには吐いたり苦しんだりして死んだんですよ。(9)

(具)四、五日もすると、私の下腹の傷口からは、蛆虫がわいていましたね。そしてどんどん蛆虫がわいてくるんですよね。それで、私は暇だから、坐ってお箸で自分のお腹から蛆虫を一つ一つ取って捨てていましたよ。(9)

(具)お前なんかと一緒に行動できるか、お前は沖縄人だから、死んでもいいが、自分らは内地の人間だから生きなくちゃならない、と言うんですよ。(12)
(糸)その後ですね、あの部隊からもこの部隊からも、部隊といっても、中隊もあれば大隊もある、連隊本部もある、また小隊からも部落へ命令するんですよ。部落からの労務です。夜、第一線へ弾薬を運ぶとか、地雷を運ぶとか、食糧を輸送するとか、使役者を今晩何名出せと来るんですよ。それで一番うるさかったのは、どこの部隊かと訊いた場合ですね、今の非常時にそんなことは訊かなくてもいいというんです。将校だからといって頭からガミガミ押さえる時は、わたしははね返したんですアメリカが兼城あたりまで来た時ですがね。今度は最後の立退き命令だから、住民は全部具志頭・玉城の方へ行きなさいという命令がやって来たんですよ。わたしはそういう命令は受けませんとはっきりことわったんですよ。そして壕を廻って、知念・玉城への立ち退き命令が来ていますが、みなさん方どう思いますか、と訊いたらどうせ死ぬなら自分の部落で死んだ方がいい、という意見が多かったんです。友軍の兵隊が駈けつけて来て、なぜあなた方は今までここにぐずぐずしているのかと喧嘩ごしにぶっつけて来たので、わたしは、なに自分の個人の防空壕に住んでおるのであって、あなたがたが、そういうことを言わんでもいいではないか、といったら、いや民間が戦争はできないから、われわれは壕に住んで最後まで闘う、というので、壕に入っていて戦はできないからあなたがたは壕に入る必要がないんだから、そとで闘いなさい、壕の中では戦争はできない、とわたしがそういったら、手榴弾で殺してやると兵隊たちがいうたんですよ。それで、何を言うているか貴様たち、僕も支那事変の死に損いだから戦争しては貴様たちには負けないぞ、と手までは出しませんでしたが、もう少しのことで殺し合いしましたよ。(7)

(糸)壕に入っている人たちは自爆の覚悟はしておったんですよ。この良一君とわたしと二人がおりますから、手榴弾までも準備していました。(7)
(糸)大変激しくなってからは、「あなたたちが、こんなに入っては出たり、出ては入ったりしてはこっちに艦砲を撃たれるから、もう来ないようにしてくれ」といわれて、大変叱られましたが、叱られても夜なったらまた入って行ったりした。それで後は、「こんなにして生きるよりは三人共死んだ方がよいよね」といって木の下で泣いたり、個人の壕にもぐり込まして貰ったりしました。(10)

(糸)そこで北郷大佐、少佐、連隊副官の前ですね、「自分は決してスパイではありません、軍のことも立派にやりましたから、スパイではありません」といってもきかないですよ。それで好きにやって下さい、と頼みました。長谷准尉が「国吉君は決してスパイではありません、宜しく御願いします。国吉のことはあくまで自分は信用しています」と頼んだわけです。それで喜んでですね、手を取り合って。(11)

(北中) おしまいに強く出て、もしアメリカ兵隊が鉄砲を向けたら、わしが真ッ先きになって見せるといったんです。そうしたら大馬鹿、これとは相手にならんといって、議会を解散してしまったんです。それからその翌日、村長、助役、収入役、県会議員、駐在巡査、議員全体、島袋(中城村)に押寄せて来たんです、わたしは島袋出身の議員だから。そうして吟味集会をして、あなたがたが出した議員は、どうもいけない、全会一致で移動を決議したが、ただひとり反対しているよ。だからわしたちがいうとおり移動するように、こうとき聞かしたですよ。その時にわたしはまた立ったですよ、行くな、わしがいう通りやれ、今いう通り食糧がない、同じ死ぬならこっちで死ね、兵隊と兵隊の戦さであって、人民は殺さない、そうわたしがいったんです。そうしたらみんな怒っているんですよ、役所から来た人たちは。皆さん、心配するなというけれど、われわれ二十三名がいうのがほんとぅか、これ一人がいうのがほんとか、どっちにつくかと、いろいろとひどいんです。二時間ぐらい自分たちのいうのがいいよ、どうのこうのいうんです。それでわたしはまた立って、もしアメリカ兵が殺すようなことがあるなら、わたしが真先きに立つ、それでも皆が行くというなら行きなさい、といったんです。そうしたら、皆おちついてしまったです。それで町長や駐在巡査たちは帰ってしまったんです。それでその後まあ、安心したといって、そのまま誰も行きませんでした。(2)

(北中)それでその後、皆おちつかしたので、比嘉太郎に、教会を建ててくれといって、これがはじめの教会で、これです(写真を見せる)。(2)
(北中)島袋の建物は、部落にいる間は、一軒もこわされてはいなかったんです。全部完全に残っていたんです。ところが、福山から帰って来た時には、一軒も残っていませんでした。(2)

(北中)そこはもう港川の橋に近いところです。ところがあの時に、大雨が降ったんですね。そうしたら、激しい濁流に人間の死体が流れて来て、大変でした。多分何百人、ひょっとしたら千人を越す犠牲者がでたのではないでしようか 。(5)
(北中) 着ている着物をかき脱いで、こんなに被うていましたが、この着物をしばらくして搾りましたら、ここから出た血がほんとに搾られました。(8)

(北中)わたしはごはんも食べていませんから、おっぱいもないわけです。水を与えようとしても水を飲むということの出来ない生れて九か月しかならない赤んぼですからね。何も与えるものがない。もうほんとに飢え死になんですよ。抱いたままですね。(10)

(北中)小さい子供があって、今大変になるところですから、売って下さいといったら、その人が両手で掬ってくれたのが、わたしの片手のいっぱい。わたしはハンカチにそれをあけて貰いましたが、ちようどわたしの片手のいっぱい。そして百円渡したんです。お金はあの時まで通用しましたよ。その人は有難うといって受け取っていました。それからまたお砂糖がありますといった人へ、砂糖売って下さいといったら、百円でほんのこれだけ(拇指と人差指で輪をつくる)。わたしは、お金は沢山持っていましたから、もっとお願い出来ませんかといったら、もう出来ないよ、といいました。(10)

(北中)わたしは子供の顔も見えない、壕に入る時見たままの子供の顔を思い出しながら、主人とお姉さんと三名で、とむらったわけです。壕の誰もいないところを手さぐりして行って、ここいらは人が、誰もいないから、この石を開けて入れようねといって、動物がするようにですね、自分の手で土をかき出して穴を掘って、「ごめんなさいね、かあちゃんも後でついて行くから、あなたひとりではないんだよ」ということをわたしは子供に言って聞かしてですね、その子供を埋めたんです。(10)

(北中)友人三名がですね、手榴弾を持って、わたしたちはここまで生きのびても自分たちの同僚は皆死んでいるんだから、僕たちもつづこうではないかというので安全栓を抜いて爆死しようとする時に、何となし頭に浮かんだのが父母の姿だったそうです。生きていれば父母にあえることもあるんじやないか、生きている人もいると思って、おい、馬鹿らしいぞ、そとに投げろといって外に投げたそうです。(10)

(北中)そのお婆さんが聞きかねてですねえ、それから小さな釜を持ってそとに出ておるんですよ。「何をなさるのおばあさん」といったら、「幼いこれらを、ひもじくさせてなるか、さあおじやを煮てくれるんだ」といって、そのおばあさんが、おじやを炊く準備をしておるんですよね。「大変だよおばあさん、今真昼だからすぐわかりますよ」といったが、そのおばあさんは、「何でもない」と危険をおかして、子供たちに、おじやを炊いてくれたんですよ。(18)

(北中)おじいさんに、「そこのうつわに食べ物を入れておくから、ひもじい時は、取りに来なさいよ」と勇気づけられてですね、……。(18)
(北中)もうあの時からは涙も出ないんですよ。おそかれ早かれそうなるからと考えて、今から考えたら不思議でならないけれども、ひとつ荷物が減ったような感じがしてですね、もう考えられない気持ちでした。(18)

(北中)自分の墓を立てましてね、甕に農業組合の預金帳や出納簿、現金も入れて、埋めて鉄兜を被せました。(22)

(北中)そうしたらわたしの養父母は、わたしたちが出て行こうとしたら、あなたたちは間違っている、戦というものは、食べものが戦であって、ここにじっとしていたら、誰もなにもしない、といっていました。(24)
(北中)ここいらでもほとんど島袋と同じく早いうちに捕虜になっていました。(24)

(宜野湾)そのために当時の宜野湾の村長について、捕虜になってスパイをしたという噂が流れたのです。それは日本軍の中から起っていました。ちようどわれわれも宜野湾出身だもんだから、嘉数の駐屯部隊内でもその噂があり、あてつけがましくですね、「君たちの村長は捕虜になってスパイしてるんだ」と、それくらいあっけにとられた状態で捕虜になっているんです。(1)

(宜野湾)戦車を見たもんだからその小母さんは急に手を引いている女の子供を放ったらかして、子供はわあわあ泣かして、自分は反対の方向へ走って逃げて行きましたよ。(6)

(中城)それでその晩、家族を連れて、大里の西原(大里城址のつけ根にある部落)の方に避難しました。それで向こうに行ったら、区長に軍からの命令であったでしようね、こっちにいる避難民は住所、氏名と年令を明記するように、命令されておったんですね、それであちこちの壕を廻っていました。(3)

(中城)そうして狩り出すですな。向こうで、六十五日いました。ここで毎晩のように弾運びです。小谷・新里(佐敷村)の北がわの耕地の中に製糖小屋があったんですな、製糖小屋の中に弾積んであるんですから、それから大里城址ですな、今の大里公園、あっちに野砲陣地があったから、あっちへ毎晩二回ずつ運ぶんですな。(3)

(中城)弾運びは、各壕から狩り出されて、三十名くらいでした。それから、六月の十一日には知念に下りました。(3)
(中城)それまでは重砲隊はいました。重砲隊は、引き上げてから民家に入っていました。部落の家は、それまでは残っておりましたが、兵隊が入って五日ほど経ってから、一軒残らずやられて、大里城址からずっと真白になって、敷きならしたようになっていました。(3)

(中城)兵隊が敵へ攻撃に行っている時でした。その壕の主が来て、ここはわたしの壕だから出なさい、なんで君等はここに入っておるか、というので、夜が明けるまではいらさせて下さいと頼んで見ましたが、壕の主は、それは出来ない、早く出て行けといって、とうとう出された。(4)

(中城)その部落の方を頼って、どこの畑から掘りなさいといって、自分で掘って来て持ち帰って、秤でかけて、金を払ってやりおったもんだから、幸いにいっしよの家族が相当に持っていたので、その方から借りて遣っておりましたんですがね。馬なんかも屠殺すると、それなんかも金を出して買うといったような、金がなければいけなかったのです。(4)

(中城)そうしてそこの部落の区長さんあたりは、馬の堆肥を持ち出して、芋を掘り取った後の畑を耕作までしておったんです。それはわたしたちがそこへ行ってからも耕作していましたよ。(4)

(中城)それから何日くらいしてからでしたか、夜中頃、壕におるものみんな、何歳という年齢と、家族が何人いますかとしらべていたんです。(4)
(中城)まもなくまた来て起されたんです。それで何ですかといって出て見たら、何時までに裏栄里の部落に集合というんです。(4)

(中城)その時に具志頭村の青年団長といって、兵隊二人、一人は上等兵一人は兵長を連れて、うちの息子をつれに来ていました。その息子は、年は十七歳であるけれどもね(8)
(中城)西本門(屋号)、ソンキの奥さんがどこからどうして来たか、どこでさがしたものか、草刈鎌を片手に持って駈けよって来ました。見ると、一方の手が、下膊で切れて、すじなのか血管なのか、それにぶら下って、ぶらぶらさせているんですね。そうしていうんです。「おばさん、おばさんはイヂ(勇気あるいは気が強い)があるから、これをこの鎌で切り離して下さい」というんです。(12)

(中城)チヌブ(竹で編んだもの、掘立て小屋などの壁にした)の端から人間の足が出ているので、あれ、これは女の足だがと思いまして、もしかしたら、わたしたちの四男の妻ではないかと思いながら、チヌブを上げて見ました。そうしたら、やはり四男の妻で、片手は切れてなくなっているし、腹は潰ぶれて引きずり出されていたんですが、女の子は、まるで山羊が焼けているように、黒く体も手足もちじこまらしておりました。(12)

(中城)頭はうしろから剥ぎ取って、皮ごと持って行かれたので、前の方には髪がもじやもじやしたのが少し残っていたが、頭のほとんどが白くなって骨が見えていたそうだ(12)

(中城)東風平村の友寄へ行きました。夫の一番の友達の家を頼って、そこの壕に入れて貰っていましたが、避難民だから、あわてて越えて来たんですね、それで食べる物を持っていないから、しばらくそこにいたら、女主人が出て行けといいました。首里の人なんかが壕の前を連れ立って行っても、「首里の人間が何でわたしたちのところへ来くさって(チークヮテ)そんなに来られては、友寄の人は屑芋さえも食べられなくなる」とわたしに当てつけて言いました。それでわたしは、心に当って言いました。そうして二十日くらいおりましたが、後ではあっちの部落の防衛隊をつかって、こっちから行ってしまわないなら、竹槍で突くぞ、突くぞといって、脅されましたそれでわたしは、お父さん(夫)に言いました。(13)

(中城)お父さん、お母さんたちを誰も見たという人はいません、この前の二十五年忌にですね、はじめて伊集の方が、「あと一時間ぐらいいっしょであったら生きていられたのにね」といわれましたが、この方たちは一時間ぐらいして捕虜とられたそうです。父は馬を引っ張っていたそうですが、この馬を置いて来るまで待っていてね、といって行ったそうですが、行って来るまでにやられてしまって、お母さんは、みぞ落ちから上半分が吹っ飛ばされていた。あなたがたにそう言うと心を痛めて驚くからと思って言わなかった、といいました。(14)

(中城)「いいえ、お母さん、わたしは怪我ではありませんよ。貞子姉さんの皮がわたしを包んで、おうていたんですよ、わたしは何もしていませんよ」といいました。その時は薬も何も持ってはいませんでしょう、頭に被るものもなくて、出して歩いていたのです。それで血を拭いて見ましたら、四男の子はどこも何もしておりません、それでわたしは、「ああ、お前は」といったきりで、言葉も出ませんでした。(16)

(浦)弾がとんできて、城間の小湾ぐわのカマーという女の人が、腿の肉をぜんぶとられてしもうてですね。またその破片で、小湾ぐわのお父は胸をやられてですね、即死です。そしたら、小湾ぐわのカマーの夫は、まだ死なない妻をもう助からないからといって埋めようとしていましたが、みんながどんどん逃げて行くもんだから、そのままにして、小さい息子をつれて逃げたんです。(1)

(浦)叔父さんは、うちはこの竹槍があるから目を突きとばしてやるよと、こんなに(手真似)なされてですね。おじさんおじさん、おじさんがそんなにするまでには敵が手榴弾一発でも撃ちこんだらみんなそのままですよ、みんな一緒に沢岻の方に行った方がいいですよ、とおっしゃりよったんですよ。(3)

(浦)その兵隊さんたちは斬込み隊の残りで、時計を見ながら、斬込みの時間が終ったら、もう行かないで行ってきたと報告するつもりだといっていました。(3)
(浦)またそこから出なさいと、中部に行く一線部隊の兵隊さんが控室に使うからと、命令されたんです。そこを出たら、あんたたちは豊見城の方に行きなさい、向うに行ったら安全で戦争みたいじゃないから、と通りがけの兵隊さんにいわれたんです。(3)

(浦)村の人も親切にしてくれて、好きなものから取って食べなさいというし、お店をしているという小父さんが、戦争の情報も教えたりしてくれたんですよ。(3)
(浦)そっちから伊敷という部落へ行って、茅葺の家に入っていました。その家主のおじいさんがですね、あんたたちがいると家を焼かれてしまうから、他所へ行かないなら、戸棚の中に日本刀がたくさん隠してあるからそれでたたっ斬るよ、といわれたからですね、あんたこそ首を斬ってやるぞとおどしたらですね、おじいさんは詫びてですね、あんたたちがいたい間いてもいいと言っていました。(3)

(浦)私たちは伊敷から出て真壁の部落の山羊小屋に隠れていました。そこの茅葺のおじいさんも、避難民がいたら爆撃されるから、早く出なさい出なさいとうるさくいって、そしてそのおじいさんは、タライやバケツやカメに水ばっかし汲んでですね、家のまわりに置いて、家が燃えたらそれで消すんだと、家の裏の高い所にいて、家を見守っていました。(3)

(浦)お願いして、よその人の壕に、私が壕を探すまで子供たちを置いてあったんですが、戻ってみたら、末の一歳になる子供があんまり泣いて、みんなから嫌われて早くつれて出てくれとおこられてですね。(3)

(浦)マブニの丘の手前の、西側に池がありましたが、私は水が欲しくて、そこへ行って水筒に水を入れてきて、飲んだんです。なんだか臭い水でした。翌日になって、その池に行ってみたら、その池には兵隊の死体がいくつも浮いていて、水は血の色をしていました。私は血のまじった水を飲んだんだなあ、とびっくりしました。(11)

(浦)ところが小便もなかなか出なくて、やっと茶碗の半分ほど溜めて、飲ましたんです。他の家族の人たちも、子供たちに小便を飲ましていました。(12)
(浦)食べるものといったら、友軍の残したカンパンが少し残っていましたが唾がなくなっているので、一つ食べる為にも苦労しました。(12)

(浦)真壁の部落の裏に大きな池がありました。その池の手前まできてですね。そこでひと休みして、お袋が何か食べ物を探しに出かけてですね。ちょうど民家の壕の中に、油壷に油味噌を見つけ出してですね。それでみんな飢えをしのいで、やがて夜が明けて、これからどうしようかと迷ったわけです。

(浦)その壕の近くに、ぺしゃんこになって崩れた茅葺きの家があったので、僕は何げなくその中を覗いてみました。すると中から、ものすごく怒鳴られてですね。敵がくるからあっち行け、というんです。僕たちを助けて下さいと、僕が頼んでも、きくどころか、罵られてですね、絶対にきかないんですね。(13)

(浦)もうここで死のうと思いました。長男だけは助かって欲しいと思い、七百円入れてある非常袋を手渡して、お前はよそのおじいさんと一緒に逃げなさいと強く言いきかせたら、納得して、私は息子と別れたのです。(17)

(西原)わたしの次女、足を怪我していた子です。生き別れして、どこでどうなったか。(11)
(西原)人の家の門に来ましたので石垣の根に荷物を下して、休もうとしましたら、お前たちがそこに休むと、わたしたちの家はすぐに焼き払われてなくなってしもうから、そこに休んではいけない、といって荷物も下してはいけないといって、ほんとに追い出されて休ましてもくれませんでしたよ、この東風平というところは。(14)

(西原)大里(糸満市)の平良では、四十円で芋畑の一うね買って、一か月も芋を食べることができたのに、その後からは、売るところもないから、すべて盗んで、他人の畑から豆なども取って……。(14)
(西原)その真栄平へ越えるところで、わたしは、足裏に柔かいものを踏んだんですがね、そうしたら小猫が泣くように音がするんですよ。それで見ましたら生んでまだそう間のない、生んだばかりのような赤ん坊なんですよ。赤ん坊を棄ててある様子ですが、それで翌日、あんなことだったが、どうなっているだろうと見たら、かたわらには女の親が射殺されて、それでその子を踏んだことを思い浮べて、身の毛がよだち、身慄いしましたよ。(14)

(西原)この翌日、翁長の人たちのおるところに、八十歳ぐらいのおばあさんが、孫たち三人つれて来ていましたが、その中の長男は、肩を打ち砕かれて、汁がぜ−ぜ−(じくじく)しているし、うぢ虫が白くちょろちょろはっていました。それでわたしは可哀想になって、墓をさがしてやりました。(14)

(西原)この隣りの壕に同じ部落の人がおりましたが、どうしておばあさんをやったかといって、わたしは叱られました。その子供の肩が腐れて、虫も出て、ほんとに臭いんですね、近寄りもできない状況でした。早くどこかへやらないと、臭くてお腹痛を起させるとか何とか、ずいぶん雑言小言ですよ。わたしは聞かぬ振りです。自分の部落の子供たちも世話してくれないと、わたしは腹立たしくはありましたが、子供たちが可哀想になって、おばあさんは帰って来られるから泣かないでね、となだめていました。しかし四、五日経っても帰って来られない。(14)

(西原)東風平の当銘・志多伯へ入って、一つの家に入ろうとしましたら、そこの家主が絶対に入ってはいけないといって、拒みました。あなたたちが入るとわたしの家は焼かれて無くなるというんです。それで少し、わたしが強くいさせてくれといったもんだから、いきなり平手打ちを一回だけでしたがくれました。七十歳に近い老人でしたが、気の強い人のようでした。そうしてそこへ糧秣係りの兵隊さんが来て、わたしたちの様子を見たのか、家主に、今は戦争だし、このようにみんな避難しているのだから、家をかさないということはいけないと叱られていました。(14)

(西原)女親と子供二人、女親は摩文仁で怪我して、子供を産んでいる女だが、痛いといってお母さんよう、お母さんようといって泣いてばかりおる。それで、前田の壕にいた連中は、この泣いてばかりいる母子をいっしょにつれて歩くと、あとにはわれわれも大変だ、つれて歩くのは面倒だ、放って行こう、そうでないとわれわれも死ぬことになるから放ったらかして逃げようという。わたしは、それはいけないよ、つれて行こう、同じ仲間を捨ててはいけないよと、わたしはその連中をやって、わたしは三人の母子をつれようと待ったが、この母子はそこの小さい壕にいるといって、いっしょに行かなかった。そのために、この母子は艦砲で、三人一度に亡くなっている。(14)

(西原)そうしてわたしたちが揃って行ったら、そこには、若い女たちもまじって十四、五人の人が場所を占めて坐っていました。防空頭布を被って、一見して首里・那覇の人たちとわかりました。何か気まぎれのためか裁縫しているのもおりました。それでわたしは、荷物も置いてありましたから、「そこはわたしたちが初めに取ってあったんですがね」といったんです。そうしたら「戦争中にも誰が取ってあったといってあるか、わたしたちの勝手だ」といった。それでわたしは、「そうですか、それならわたしたちはあっちへ行きましよう」といって、置いてあった荷物を取って行きました。
 それから四時間ばかり経ってから後だと思います。そのガジマルのところへ、爆弾でしようかね、直撃が落ちたんです。(14)

(西原)三十人ばかり死んだ兵隊が倒れたすぐそばに、女が一人いるんです。二十歳になっていたでしようかね、右だったか左だったかは憶えていませんが、足が股から切れて動くことができないんです。生きてはおるが、歩くことはできないで倒れていました。姉さんはどこの人ですかと訊いたら、中城村の南上原というんです。南上原といったらすぐそこですよ(棚原部落から)。名を聞いたら米須だといっていました。米須の一門の娘だったんですね。兵隊が死んでいるそばだから、銀蠅がひどくたかって、それを手で払っていました。何ともいえない可愛想な有様ですよ。「姉さん、わたしがどうすることもできないから、ごめんなさいね」、といってそこを離れて……。(14)

(西原)機関銃が激しく撃って来ました。弾は上へ上っていたので、わたしは皆に散開させて、それから、皆、伏せ、させて弾が静まったので、子供はなるべく大きく泣かしなさい、泣かない子供は、つねって泣かしなさい、とみんなに言い伝えました。何百人という人でしたが、子供を泣かしたら弾が来なくなりまんたので、それから歩き出しました。(14)

(西原)水も無くて、御飯も炊いて食べるものも何もありません。それで、すすきの茎を折って来て、あれは中があいていますからね、あれで岩の間に少しずつ溜っている水を一人びとり飲んで暮しておりました。子供たちもみんな。(15)

(西原)子供も負ぶって死んでいる女の人がいましたが、子供は白い目をあけていました。(15)
(西原)そこから具志頭はどれぐらいありますかね、遠かったようにもありますが、部落みたようなところは歩いた覚えはありません。歩いて行って、川があったのは覚えています。その川には死んだ人が、沢山流れていました。川の橋を渡って具志頭の学校の前へ行きましたが、その川の水は真赤でありました。(15)

(西原)喜屋武・照屋への道を歩いたんですが、首里から下る与那原のカーブになっているあたりですね、あっちはもう、馬から、防衛隊の兵隊たちから、重なり合って倒れて、それはもう何ともいえない、大変でした。友軍の兵隊は、道を作っていましたが、死んだ人を片ずけるのに大変のようでありました。(18)

(西原)糸満・照屋に行きましたところ、青年が、余所から来た人を入れてはいけない、作物を荒らすので、余所島(ヨソシマ)の人を入れてはいけないといって常会があったから、いれない、といわれた。そこの部落の人たちも壕にいるのだから、それでは、人の入っていな……。(20)

(西原)前川ガラガラガマといって、大雨が降ってですね、やっぱり生きている人でもそこから渡るといって、大勢流されて死んだ人が、沢山おりますよ。こうしてみんな死んでしまってですね、自分でも、少し間違えば流されて死んでいたんですよ。その前川ガラガラで人びとが流される中におりましたけれど、ガラガラガマから人が流して捨てた釜ですね、記念として今も置いてあります。孫たちに記念として。
 流れる水は初めは少しずつこうして、だんだんそうして屋根のようにあります。天井のようにして、こうして、それがいっぱいなります(瞬間に増水することの形容だが、はっきり形に浮ばない)。そしてここから船を通されるくらいでありますがね、こうして男も女もあっちへ渡って行ったら助かるといって、そこを渡ろうとする時に流されてね、そうして流された人は港川に流されて、与那原の人は沢山でありましたよ。幸地の人ではあの仲門小よ、あっちの嫡子(長男)、あれは手を怪我していたが、他の人と首を抱き合って添って行くといって、手はこうして持ち上げていたが、流されて、あれは現にわたしたちといっしょでしたが、「おばさん、こっちにおったら危いからわたしはあっちへ越えて行くから」といったんですが、川の中で流されてしまいましたよ。(21)

(西原)神里・平川の向かいの部落に行きました。そこの家はほんの小さいところでしたが、そこのお爺さんは、弾の破片が、バンパン大きな音を立てて来ても、十四になるわたしの三男をつれて、芋を植えるんですよ。植えて置くとお前たちもいっしょに食べるんだぞ。戦さを負かしたらお前たちは親類であるぞ、掘って食べるんだぞといって、いっしょうけんめい近くの畑に、わたしの三男と芋を植えるのです。あれ、弾が来たぞ、来たぞと逃げ込んだりしながら、(また)芋蔓を植えていましたよ。六十余りのお爺さん夫婦、お爺さんの奥さんと二人であります。(22)

(西原)わたしは、生きられるだけ、生きるんだと思って、それから、喜屋武(南風原村)、本部(同村)を目標に野原の中を手で匐って下って、野原から夜が暮れるまでに匐って下った喜屋武・本部から神里へ行き、それから稲嶺・目取真、新城(具志頭村)・船越、前川、具志頭村の役場の前、与座・仲座というふうに通りました。(26)

(西原)そうしたら、小橋川(同じ西原村)のものですが、知っているのが山羊をつぶしていましたよ。わたしにも山羊を一碗だけくれないかとら芋を一つくれないかと一つでいいから山羊の骨を一つしゃぶらしてくれないかとそれもできないといって、その上山羊の煮たのを隠すんですよ。(26)

(西原)隠れ隠れて、防衛隊に取られないようにして下さいといって、隠れて脱がれていましたよ。昼壕に入っていますと、防衛隊に取るためにさがしに来ますから、隠れていなさいといって、わたしは隠れさせて、防衛隊にやらないように隠れさせていました。(29)

(西原)畑で芋をザルのいっぱい掘ったから家へ帰りましようと思っていますと、この伊敷部落のお爺さんがいきなり現れて、わたしが掘ってある芋を入れた笊を引っ担いで、逃げ出しましたので、「お爺さん、この笊はわたしのものですのに、芋は持って行かれても笊は置いて行って下さい」とわたしは呼びかけました。「お前たちは腹いっぱい食べて、わたしたちには食べさせないのか」といっで、笊だけは返して下さいといっても、もう知らぬ振りで、まあ逃げて行きました。(30)

(西原)自分の子供等に食べさせょうと思って、芋蔓の葉を取って来て、少しばかりの芋葛を入れて、煮ましてね、鍋は熱いですよね、それを石を三つ並べて作った竈から下して、何か鍋取りはないかと、ちょっと目をはなしましたら、床の下から匐い出て来て、さっと取られましたよ。これは男でありましたよ。(30)

(西原)左の方から弾が来てわたしの長女の頭に当りました。ポコッという音がしましたが、それと同時に引っくり返りました。顔が無くなって分らなくなっていましたが、脳味噌が弾で散らされて、みんなが浴びました。(30)

(西原)もう八月になって、部隊は解散していますから、八重瀬に行って食糧を取って来たら、待ち構えていて、殺して食糧を奪い取る兵隊もいたので、一人の行動は絶対許されない、食糧には大変苦労しましたよ。(34)

(西原)アメリカさんは衛生を重んじていますから、全部艦砲穴に埋めてあるわけです(食べ残したものの意味だと思う)。一つの穴をさがしたら、四百個も五百個も出るわけです。(34)
(西原)海岸に行った場合、他府県出身の生き残った兵隊がさがしているのは、沖縄人ですよ。大体四、五名一組ですが、他府県出身の人たちは、沖縄県人を奪い合うのです。沖縄のものは地理がわかっているし、いっしよになって北部へ突破するために。(34)

(西原)金武の壕に、それでも一週間か、それくらいいたんですよ。
乳呑み児をつれている人は、みんなからとってもいじめられておったんですよ。「あなたがた二人のために、こんなに大勢の人を犠牲にするなんてあんまり気の毒でないか、二人だけ犠牲になって、外へ出て行って、死んだらどうだ」というてね。(38)

(西原)そうして、汀間・瀬嵩に行ったら、食糧はないでしよう「西原から、みんな泥棒が来ている」とか、何とかいうんですね。ある一人の人は、軍人あがりといっていたけれども、わたしはどうしても忘れられないんですよ、その人が。学校へ行って、芋を盗もうとしたんですよ。そうして行ったら「何で?西原の人はみんな泥棒だね、人のものを取って」というんですね、わたしは死んでもいいけれども子供たちが泣くのを見ておられないから盗みに来たんですよ」といったら、「何で?半分は死なないと戦争は勝てないんだ」とこの人、軍人上りという人がいうんです。(38)

(西原)山の中ではね、ハブ(猛毒の蛇)もおるでしょう、だから死にたい気持ちはあっても、ハブは恐いから、寝る時には、子供たちをこんなにして一人は坐らして、一人はこんなにしてみんな重ねて。(38)

(西原)ここいらは石川ですって言われて、そうしたら、そっちからはじめて死んだ人を見たですよ、アメリカーやら。石川の手前の小山で四、五人ぐらい、みんな死んでこんなにしているでしよう。(38)

(西原)それで島尻へ行くということで、子供も担いでおるし、妹はまあおんぶしているが、子供三人捨てるより妹捨てた方がいいといってからに、話をしてから、あなたはどうせ歩かんといかんよ、そうでないとあなたは捨てるほかにはないが、あなたひとりを助けて子供を三名捨てるというのは忍びない、(44)

(西原)その壕にいた人は与那原あたりの人ではなかったかと思ったんですが、そこへ入って行って、散ざん怒られてですね、僕等は。君等がそんなにして歩いているから弾がここに来るんだ、出て行け、といわれたんです。(46)

(西原)富盛行ったら民家に入ったんですよ、夜おそくなっていましたから。そうしたら女の方だったが、この人が来てですね、山に上って行け、絶対にこっちにいてはいけない、あなたがたがこっちにいると、うちが焼かれるから出ろ、出ろという。おそいので、夜が明けたら山に行くから一晩だけ泊めてくれといったんですがね、いや、おかん、といってですね、陸軍の兵隊を連れて来て、出れというんですよ。(46)

(西原)あっちの青年団が竹槍を持って、芋畑をまもって全然取らさないんですよ。いろいろと頼んで見ても掘らしてはくれないんですよ。金で買いなさいというんですわれわれは、西原の自分の部落で、中城あたりから来た人たちに、戦争に追われて避難しているのだから、ただてくれて来ておるから、あなたがたもくれなさいといったら、いや、この戦争は勝つというんですよ……若い者たちだからわかったんですが、そうしたらこのお婆さんが怒ってですよ、絶対いかんといって、それでわたしたちは、いろいろ嘆願したんです。それでもきかない、掘った分は置いておけ、明日からは絶対掘ってはいかん、といわれてその日はとぅとうそのまま帰りました。(46)

(西原)そうして富里・当山といってあるんですがね、あっちへ行ったんですよ。あっち行ったら区長さんか何か知らんですがね、全部受け容れてですなあ、野菜でも芋でも沢山あるから、どこでもいいから取りなさいといって、みんなを案内してですね、畑に行って芋も掘って取って、野菜も取って、また相当に豊富にあったんです。(46)

(西原)大家族だから芋を買うて来て、壕の入口で煮て、諸見里といって大きな家があったので、皆行って南京袋のいっぱいずつ、買っておったよ。馬の肉売りもいて、肉も沢山あったので買って食べたよ。(47)

(西原)それから前川ガラガラの川にいたら大雨が降り出したよ…その時は、大勢の人が流された。(47)
(西原)それで芋も米も買っていた諸見里という家の離れに入ったら、そこも首里から避難民の親戚が大勢来るからあなたがたはほかへ行って下さい、といわれた。(47)

(西原)それで志多伯で一泊しようということになってですね家主さんがやって来て、いいますことにはですね、「わたしたちは、家を残るようにするために壕に入っておるのだから、お前たちは早くここから出て行かないと、わたしたちの家は焼かれるんだが」というんですよね。(49)

(西原)そうして、六月の二十日までこっちにおりました。また照屋の人が、さあ、わたしたちの畑に行って芋を掘って来ようという。こっちから行ったら向こうは全然戦さの気分はしませんでした。(49)

(西原)わたしの父は、「誠に御祖先のお陰だ、御祖先さまが守って下さったのだ」と繰返しがえし言っていました。父は御先祖信心が大変厚かったのです。それで御位牌もずっとお供して、壕の中でも安置して毎日朝も晩もお茶を上げて家族みんな無事にしのがして下さいますようにといって拝みました。(49)

(西原)それから糸満の壕の入口でですね、さあ、もうここにいられないのに行こうねといって、もう出ようとする時に蟹が二つ出て来てですね、そこにいるんです。だからうちの父は、「これは祖先のお使いだ」といってですね、おすの蟹とめすの蟹が出て来たんです。それで父は、「この蟹は神様だぞ、今日はここを出るのを控えて置け」といって、そこを出ませんで、それでここで捕虜されました。(49) 

(2)「県史10巻」から
(那)首里のあちらこちらには、避難民の通り道を指示する係の兵隊がいて、私達も鳥堀から行こうしていたのを「こっちは通れないから」と云われ、タマウドゥン(霊御殿)の方から下りて行きましたが石垣はあちこちくずれていてやっと歩ける状態でした。(2)

(那)私達の住んでいた当蔵は、島尻の真壁村に行きなさいとの命令でした。(2)
(那)岩の上に壕があったので登って行こうとしたら友軍の兵隊が鉄砲をもって前に立ちはだかり、「子供達が邪魔だから駄目だ」と登らせませんでした。(2)

(那)その辺りの岩陰で御飯を炊いて食べょうと思い薪がわりにあだんのくきを拾っていたら両足ともない兵隊が、長い日本刀を杖がわりについて何か食物をくれと云って来たが、私達にも何もなかったが、油みそが少し残っていたのをあげようとして、みたら失くなっていました。しかたなく御飯を炊いて半分あげましたが、じっと炊けるのを待っている姿がとても恐ろしく思えました。(2)

(那)弁が岳の壕にいたおばあさんはずっとそのまま逃げずにその壕の中にいて、後にそこで“捕虜”になり今も元気におられます。そのおばあさんに会うと今も「あのままずっと壕にじっとしていたらあわれな目にも合わずに済んだのに」と云われています。(3)

(那)道は「兵隊は右、一般人は左」ときめられていたのです。(3)
(那)友軍は住民に「ザワザワとさわがしいので我々がせっかく秘密で上って来ているのに、オマエ達の為に敵にみつかってしまうじやないか」といって銃をつきつけたりもするので道を通るにも大変でした。(3)

(那)住民が通ってもよい道は別にあったらしいですが、私達を含め大方の住民はそのことを知らないまま友軍に通る事を禁止されたりして右往左往していました。(3)
(那)山の死がいの中に三〜四歳位になる子供が母の死体にすがって「アヤーヨ、アヤーヨ」と泣いていましたので一人っ子として育った私は、「あの子を一緒に連れていって」と父母にたのんだのですが、こんな状態では自分達四人ですら生きのびられるかどうか分らないのに足手まといになる小さな子供まで連れては行けないと母に叱られてしまいました。(3)

(那)私達も日本兵に「ヤカマシイ」とおどされて兵隊の通る道を通る事も出来ずしかたなく河原に下りて歩き土手によじのぼったりしたりして進みました。あたりは死んだ兵隊で一杯で馬車を通すのも大変でした。死体のところにくると手で車を持ち上げて進ませるといった具合でした。(3)

(那)雨が降っていてとても寒かったので毛布を肩にかけてたおれている兵隊を死んでいると思いその毛布をとろうと手をかけたら「イー」と声を出したのでもう私はとび上る位おどろきました。少女の父親が首から下全身うめられたのです。…その父親は少女が肩からさげているカバンの中に天皇陛下の写真が入っているからそれを持って私達一家と一緒に逃げなさいと云っていましたが……。(3)

(那)敵は背後に迫っでくるし、日本兵は「突撃!」とどなってこちらに向ってやってくる接近戦に巻き込まれ、友軍のそばにいる事も危険でした。(3)
(那)おじいさんは「どこにいても死ぬ時は死ぬのだからそんな汚いとこは嫌だ」といって絶対豚小屋には来ないのです。むしろをあけたら、首を吹き飛ばされて胴体だけになっていました。(3)

(那)近くの海辺では女学生四〜五名が手榴弾で自決していました。身体はバラバラにとびちり服も引き裂れて何とも哀れな少女達の姿でした。まだ自決したばかりなのでしょう、波にも洗われずにいました。(3)

(那)赤ん坊は乳を吸う体力もなくなり、泣くばかりでどうしようかと思っている時でしたが、「こっちはもうこんなに一杯人が入っていてどうにもならないから後から来た人は出ていってほしい」と云われやむなくそこを出て、……。(6)

(那)今度は小さな墓をあけて入り、そこでも二〜三日過したいと思ったら今度は、前に追出された壕は大きくてがんじょうな墓だったのに目をつけた日本兵がそこを立ち退く様にと命令し、そこを立ち退いた人達が入るのに使うという事で、結局は、私達が出るはめになってしまいました。(6)

(那)(日本軍に壕を)出された時は日も暮れ、雨も降っていたので困り、大名で近所だった玉那覇のお母さんや次男が、近くの壕に入っていたのでその壕に行って、入れてほしいとたのみましたが、子供づれは嫌がられて、ことわられました。(6)

(那)特にあられもない格好で死んでいる女の人を見た時などは、死んでから後もそんな姿を人にさらしてはじをかきたくないとそればかり考えて、自分はそんな目に会わずに死ねるかどうかと不安でした。(6)

(沖)この部落近くの人が、自分の妻の実家の方に子供三人連れて避難していたらしいが、妻の兄が、アメリカ軍の上陸直後、アメリカ兵に捕虜されたら虐殺されるから自分達で死んだ方がよいといって草刈鎌で自分の妹やその夫、子供達三人を次々とノドを切って殺し自分も死ぬつもりが死に切れず、戦争にも生き延びて現在まで生きている人がいる。(2)

(沖)安慶田の方へ向かいました。その部落の入口にさしかかった時、友軍の兵隊が飛び出してきて「嘉手納方面から敵軍がやってくるはずだからこの先へ進むな」と叫んで、いきなり私の方へ手樽弾を投げつけて爆発させました。(5)

(沖)島袋部落の青年達が、竹槍を持って嘉手納の方ヘアメリカ兵と戦さに行くのを見かけましたが、これで本当に戦争に勝てるのかなあと思いました。あんな竹槍では蛙でも刺し殺せないはずだろうに……。(5)

(沖)姉の子供たちがわんばく盛りであったから、艦砲が落ちてくる時でも山の中を遊びまわって、砲弾の落下する音をまねて近所のおばあさん達をびっくりさせたりするので、「あんたがたが近くにいたら私達まで殺されてしまうからここからはどこかへ行ってくれ」としょっちゅう文句ばかりいわれていたので、転々と小屋をかえなければいけませんでした。同じ部落の人に追い出されるのは非常に苦痛でした。(6)

(本)シギシキに着くと、そこにはまだたくさんの友軍がいて、米軍を迎え撃つと言って気勢をあげていた。ところが、突然米軍が攻撃を裕びせて来たので、私たちは両方に挟まれてしまった。(6)

(本)今帰仁の山には瀬底の人々がたくさん避難していた。しばらく一緒にいたけれど、生後間もない私の娘が泣き出すたびに、「この子のためにみんなが危険な目に会うのはごめんだから、早く絞め殺してくれ」などと叱られたので、私の家族はみんなから離れた所に避難小屋を作って隠れることになった。(6)

(本)私たち女子青年は、米兵から身を護らねばならなかったので、本部富士の中腹の岩場に、みんなで一緒に隠れていた。リュックサックに食糧をいっぱい詰めて、雨が降ったら岩の下にもぐり、天気が好くなると岩場に出て、シラミを取り合ったものである。殆んどが十六歳から二六、七歳の女性であった。このように、昼の間はずっと岩場に隠れていたので、謝花では強姦事件などは一度も起こらなかった。(20)

(本)一緒にいた人々は、赤ちゃんが泣き出すと、「この子のためにみんなが危いから、すぐに殺しなさい」と強要するのであった。(18)
(今)そのとき全然泣きもしなかった子が、急に家内の背中でもうワァーッと泣いてですね。ワーッともう二、三べん泣いたのを、撃ちよった米軍の連中が聞いてですね、ああ、これはみんな軍ではないということがわかったので、撃ち方やめてですね、照明弾をうちあげたんですね。そしたらやはりみな民間人ですから、民間人、そのまま、また山に逆もどりして逃げることができたというはなし……。(1)

(今)首里・那覇の人はいばっていた。わたしは足が悪いから徴用にいかなかったんですよ。そしたら毎日、ムチもって各家庭見廻りにきて、わたし体が悪いから農業できませんといってわびしているんだが、この人はバカヤローいってムチで叩いて毎日怒っていた。(1)

(今)すんでのところでその子どもをやりましたよ。みんなのためだということでね、鎌で。それを祖母が、死ぬのは一緒であって、子どもをそんなにすることはないだろうということで、結局はみんなで止めてその子どもは生きたわけですがね。(4)

(今)自分の奥さんとその母親もやられていますからね。しばらくして、宗昌さんなんかはヤケになっていたんでしょうね。こんな山奥にかくれておって苦労するよりはやっぱり羽地(収容所)にいったほうがいいんじゃないかとうっかり口をすべらしたために、すんでのところでやられるところでした。その人が日本軍に、殺してくれるなと、泣いてなだめてわびを入れてですね、この人は米軍に妻も母もやられて気持が高ぶっているんだ、ということを説明したので許された。もこの友軍たちは、結局、マブイからの流れ者ですね。
(4)

(今)あっちいったらお肉の罐詰と卵と換えるという話があるから、行って換えてこないかというわけさ、うちのおじいさんが。そういうから、うちの隣りのウンジャミヤーのねえさんと二人で、兼次学校にたくさんテント張って部隊ありましたよ、隣りのねえさんと二人でたくさん卵もっていってよ、学校の門に行ってよ、門番がいましたから…こんな大きな、こんな高さの牛罐もってきてよ、卵と交換してよ、あのときの牛罐おいしかったさ。交換してきたらうちのお父さんが喜んでですよ、……。(5)

(今)ユーは軍隊にいったんだからどこで死んでも、ユーは名誉の戦死である。うちに帰ったら、うちが大変だから。ユー一人のためにうちの家族全部が大変なったら危いから、ユーは山にいきなさいと、おやじにも追っぱらわれて、あれからもう全然うちにこなかったですよ。(11)

(国)父が何より心配したのは、家で預っている御真影のことでした。仲村渠校長は本部の人で仮住いでしたから、山に近い私の家が安全だろうと父が預っていたわけです。この御真影を米兵にとられでもしたら死んでも死にきれない、早く安全な場所に移そうと、それで翌朝まだ暗いうちに父は山を降りていったわけです。そして部落の近くの山まで来たとき、もうそこの山の中腹には米軍の陣地ができていて、陣地の周りには地雷が仕掛けてあったわけです。もちろん父はそれを知らないし、まだ暗いうちですから、この地雷に触れてしまって、何米か吹っ飛ばされ、重傷を負って意識不明になってしまったわけです。幸い爆発は背後の方で起ったので内臓には達しなくて即死はまぬがれたわけですが、全身に無数の破片がつき刺っていました。(1)

(国)七月になっても沖縄戦が終ったということは全然わかりませんでした。(1)
(国)日本兵は毎日のように住民の避難小屋に食糧徴発にやってきました。あと一週間したら連合艦隊がやってくるから隠してある食糧は軍に供出しなさいと、デマをとばすのはまだましな方で、刃物をつきつけたり、手榴弾をふりかざしたりして乏しい食糧を奪っていくのがいました。(1)

(国)米軍が来てから一週間後に山を降りた人たちもいました。この人たちは早くから部落で畑を耕やして当時としては豊かな暮しをしていました。(1)
(国)教育のある者がたいていバカをみています。(1)

(東)嵩江にきて四日目ごろ下の小川で地元の人が豚をこしらえていたので、おじさん半斤でも分けてくれないねえと頼んだら、避難民がもこれ食うかと断わられて、ほんとに情けなかったですよ。避難民はじゃま者あつかいされて、金はもっていても売ってはくれないですよ。(1)

(伊是名)そのとき、私らは集まって、もしこの島に上陸してきたらどうするかと相談したわけです。そこで、アメリカは民間人は絶対殺さないはずだから、白旗をあげて降参すれば大丈夫だと言い聞かせて、どこから戦車がきてもこの白旗で歓迎しようということにしたわけです。なかには反対する者もいましたこの他に、先生方など公職者はみんな本島に行ってしまったと答えること、女はボロを着けてなるべく汚く見せること、なども相談しておきました。(4)

(伊是)六月の初め、伊平屋島に米軍が上陸したときは、警備船(哨戒艇)は内花(伊是名島北端)と具志川(島)の間を往き来して今にも上陸してくる模様でした。このとき、名嘉徳盛という青年が野甫(島)から伊平屋に泳いでいって、この島には軍事施設は何もないから攻撃しないでくれと米軍に頼んで、それが聞きいれられてこの島は救われたわけです。(4)

(伊江)私はカヤバサミを分解してそれを竿の先にゆわえ、アメリカ兵が、タテ穴から降りて来たら、刺殺するつもりで身構えていた。(9)
(伊江)当銘というヤブーみたいな薬屋のおじいが、「君たちは戦争をするといって、民間の壕の中に入ってくるじゃないか。軍隊だから、出て行きなさい」といって入れませんでした。(11)

(伊江)他の人びとは、捕虜にとられたら、体を一寸切りにされるといって、自分から爆雷で吹っ飛んだんです。それから、防衛隊の人が爆雷の信管をバーンと押しました。すると、壕の上の壁がくずれて、石などがバラバラ落ちてきて、皆、もう死んだと思いました。気がつくと、自分は生きていました。(11)

(伊江)前に話したおじさん、あの方の家族は、爆雷が爆発した時にやられたが、防衛隊員であったその方は、自分より年上のおねえさん達二人と、おかあさんたちと、四、五人残って、自分たちが壕を出たその日に、手榴弾で自決しました。全員、即死ですよ。(11)

(粟)まわりの人たちは、この子がいたら皆が全滅してしまう、外へ出るか口をふさぐかしなさいと言ってきました。(2)
(粟)皆がウカハガマに隠れていたころ、村長、郵便局長、巡査などきて、敵が上陸してきたらどうするかという話をしていました。私が、白旗を用意して降参しよう、上陸したら全員降伏しようと村長さんに言ったんです。ところが、村長さんとか区長さんとかは、「指導者がそんなことができるか」とききませんでしたよ。私の姉の夫は校長をしていましたが、「もうサイパンみたいに玉砕だ」と言っておりました。(2)

(座)私の家族と親戚も最初はみんなと一緒にいたんですが、「生きられる間は生きようじゃないか」と誰かが言いだして、一族のリーダー格だった伯父(垣花福正)が、「みんながそう言うなら、逃げられるだけは逃げてみよう」と言って、私の家と伯父の家と、もう一か所の親戚の家族、三世帯だけは、その晩のうちに部落民から離れて独自行動をとることになりました。(1)

(座)近くの軍の壕にはいっていった。そこには軍曹が一人いるので許可をもらい一晩とめてもらった。私達は部落民は全部死んでしまったと思いこみ、生きるのぞみもないためその軍曹に殺してくれとお願いした。ところが決行を待っている最中、その軍曹が部落の一人の若い女の人に目をつけ、つかまえようとおいかけている時、彼女のお父さんがみんなを迎えにやってきたのです。その人が来たおかげで部落民が生きているということを知り、死ぬのをやめて部落民の避難先に向かった。(4)

(座)部落民はアメリカ軍よりも、次第に、味方であるはずの日本兵に恐れを抱くようになり、逃亡する人が目立ってでてきました。逃亡する手段として、日本兵に見つからないようにこっそり浜辺に出て手をふれば、島の周囲をとりまいている米艦からゴムボートが出され、迎えに来てくれました。(7)

(座)みんなは親せきの壕に逃げて行き、私達も近くにおじの壕があったのではいっていくと、「今は戦争なんだよ。お前たちまではいってくるとここにいるみんながやられてしまうんではないか。そうなったらどうするんだ」と、とにかく「出て行け」と言わんばかりにぐちをこぼし出した。母や妹たちはぐちを言われながらも出ていける状態でなくただすわったままでいる。
 しかし私はそう言われては中にはいる気もせず、入口に立っていると、私のおばがぐちを言う人たちに「こんな状態になって今さらどうして命が欲しいの。親せきは命を共にしようと集まってきているんじゃないの。」と言ったので私はその言葉に少しすなおな気持ちになり入口にすわっていたが、やはりいい気持ちはしない。あたりの状況を見てすぐさま年寄りのいる部落の近くの壕にひき返していった。(9)

(座)水をもったおばさんは一人の娘を首を縄でくくって殺したため頭がおかしくなり、「もう少しで娘が帰ってくるからはやくこの水を飲ませてやりたい。」と大切に腕にかかえてはなそうとしない。(9)

(座)中には子供を殺してしまったとぐったりとなってはいってくる人もいた。(9)
(座)米軍の上陸後二時間程経った午後十時頃、追いつめられ一か所に集まった部落民は、家族単位で玉砕が決行されました。数時間前までだれ一人として想像もできなかった事が、わずかの時間でやってのけられたのです。(10)

(座)これまではどんなつらい事があっても、自分のすべてが天皇陛下のものであるという心の支えが、自決未すいのため、さらには捕虜になったため一度にくずれてしまい、天皇陛下への申し分けなさでどうすればいいのか全くわからず、最後の「忠誠」である「死」までうばってしまった米軍がにくらしくて、力があるのなら、そして武器があるのならその場で殺してやりたい気持ちでいっぱいでした。(10)

(座)一緒にいた部落民は、父親が妻や子の首をしめたり、夢中になって木にぶら下がるもの、ねこいらずをうばいあって、なめて苦しむ者、表現できないほど残虐な事がやってのけられていました。(11)

(座) 私達も死ぬ方法を考えた結果、首をくくるに限ると思い縄をさがしている所へ米兵がやってきてつかまってしまいました。あの頃、伊江島の人たちがいなけれは、私達は毎日、びくびくしていたに違いないと思う。集団自決で過半数の部落民が死んでしまって残されたわずかの人々だけで何ができただろうか。(11)

(座)ごはんを炊きながら薪が足りなさそうになるものなら、拾いに行って帰ってくるまでには、もう釜がなくなっていました。それでどの家族も、必ず二人がかりでごはんを炊きにきていました。(12)

(座)佐道の方に出てみると、艦砲射撃が激しいので、私達は伏せながら歩き続け、やっと忠魂碑前にたどりつきました。しかし、そこには私の家族の他に、校長先生とその奥さん、それに別の一家族いるだけで他にだれも見当りません。(13)

(座)私は校長先生に一緒に玉砕させてくれるようお願いしました。「天皇陛下バンザイ」をみんなで唱え「死ぬ気持を惜しまないでりっぱに死んでいきましょう」と言ってから一人の年輩の先生が、だれかに当たるだろうとめくらめっぼうに手りゅう弾を投げつけました。(13)

(座)先生は即死で、女の子は重傷。(13)
(座)突然、校長先生が、奥さんの首を切り始めましたすると奥さんの方は切られながらも、「お父さん、まだですよ。もう少しですよ」と言っています。(13)

(座)今度は自らの首を切ったため、「シューッ」と血の出る音と同時に倒れてしまいました。(13)
(座)私達や残った家族は最後まで死ぬ覚悟で、いつまでも壕の中にいました。(13)

(座)私達が壕に戻った頃、自分の壕で死ぬといって猫いらずを口にしながら戻っていった人たちはまだ死なないため、父親がそばにあった丸太棒で奥さんや子供たちをさんざんになぐりつけて殺した後、小さな男の子が薬のためか下痢をして苦しんでいるのをみて手をつかまえ、まるで猫の子をふり回すかのようにふりまわした。そして何回か石にぶっつけ、最後に丸太棒でなぐりつける。「ぐあっ」という一声で下痢をしながら死んでしまった。(14)

(座)水谷少尉から、水をくんでくるよう言われましたが、不安なので、断わってしまいました。それからというもの、少尉はカンカンに怒り出し、別の人に言いつけてから、私に向かって、「お前は、俺たちについてきてはいけないぞ」と言うのです。そうは言われても、一人だけ置いてきぼりにされては心細いので、こっそり、うしろからついて行きました。ところが見られてしまったため、「おまえは来てはいけないはずだ」と日本刀をふりまわしてきました。(19)

(渡嘉)そこでどうするか、村の有力者たちが協議していました。村長、前村長、真喜屋先生に、現校長、防衛隊の何名か、それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも、そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと、主張した人もいました。特に防衛隊は、闘うために、妻子を片づけようではないかと、いっていました。(1)

(渡嘉)思い思いにグループをつくって、背中合せに集団をなしていました…やっぱり発火しません。周囲は、どかんどかん爆発音を発していました。その時、米軍の迫撃砲がいちだんと激しくなり、ばたばた倒れる者が居りました。この時の迫撃砲で死んだのも少なくはありません。(1)

(渡嘉)西陣地には着剣した兵隊が立ちふさがり、陣地内に一歩も入れてくれないのです。ワイワイわめきながら侵入しようとした村民に、日本軍は発砲していました。(1)

(渡嘉)安里喜順巡査が恩納川原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが……。(2)

(渡嘉)安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メールくらいの所のくぼみから、私たちをじ−っと見ていた。「貴方も一緒に…との際、生きられる見込みはなくなった」と私は誘った。「いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決は出来ません」といっていた。私の意識は、はっきりしていた。(2)

(渡嘉)集団自決以後、赤松が私に対する態度はいよいよ露骨に、ヒステリー症状を表わしていた。(2)
(渡嘉)もう生きられる望みを断たれたと、思っていたのです。それが自決をさせたと思います。しかし私が問題にするのは、十歳の少女がどうして手榴弾を手に入れたか、ということです。それにしても私が見た自決者の遺体は六、七体でした。記録に残る三二九体というのは見てもいないし知りません。(3)

(渡嘉)村長の音どで天皇陛下万才を唱和し、最後に別れの歌だといって「君が代」をみんなで歌いました。自決はこの時始まったのです。その時、私には「殺して−」という声には何か、そうだ、そうだと、早く私も殺してくれと呼びたくなるように共感の気持でした。私の頭部に一撃、クワのような大きな刃物を打ち込み、続けざまに、顔といわず頭といわず……。目を開いて、私は私を殺す人を見ていたのですが、誰だったか、わかりません。土の臭いをかぐように、うつぶせていた私は生きていました。そこには親戚の者たちが居て、私を見て大変びっくりしていましたが子供を死なせて、なぜ生きているのかといい、私の傷の手当どころか、壕にも入れてくれないのです。米兵が来て、私を舟にのせて、座間味へつれて行きそこの病院に入院させました。(4)

(渡嘉)私たちはいったん米軍に収容されたというので、負目に立たされていました。(4)
(渡嘉)あれほど厳しい中から、生きのびて来た私たちでしたが、どこの家は海からリンゴを拾って来た、毛布をひろって来た、何々があったと、お互い取り合いをし、それを日本兵に通報している者がおりました。(4)

(渡嘉)そのような中ですから、スパイだ、何だといって村民を殺すことになりました。(4)
(渡嘉)私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いっていました。
ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。それに「はずみ」というものがあります。あの時、村の有志が「もう良い時分ではないか」といって、万才を三唱させていたといいますから、それが「はずみ」になったのではないでしょうか。(5)

(渡嘉)私が発見した生き残りは四名でした。山を下りると避難小屋へ急ぎ、四人の人を救出しましたが、二人はまもなく死んでしまいました。Tさんに一家殺されたという人がいました。しかしTさんも、一家自決して果ててしまっていました。
 私の従弟のMは、T先生に殺して下さいと頼んで殺されました。この先生一家もまた全滅しました。玉砕場で死んだのは、二、三百名ではないかと思います。(7)

(久米)喜屋武岬は海岸に面した所は二メートルくらいの崖ぶちの波打ぎわで人間がころころ波にもてあそばれて、それがどこまでも続いていた。(1)
(久米)私たちのメンバーになった、高橋と私に、海軍の兵曹長と水夫、暁部隊の二人、それに中学生と思われる玉城少年である。暁部隊の原田という年配の男は、口が重く経験もあるらしいので、この男を船長にした。暁部隊のあと一人は、大阪弁の男で、信用できるようなできないようなこの男のことを私たちは天一坊と綽名をつけた。(1)

(与那城)病気、栄養失調などで、一緒に逃げれなくなった年寄りのかたわらに、「ウケーメー(おかゆ)」を入れたおわんを置いたまま置き去りにしてある場合が、あちらこちらにありました。(3)

(与那城)戦況がしだいに悪化するにつれて、島尻から、クリ舟や、木切れに乗って島々にたどりつく防衛隊員や、日本兵が増えてきました。(4)
(勝連)負傷兵はもう手当てができないから自爆させてこの池に投げこんであったんだが、しまいには池はいっぱいになってしまって山積みになっていました。(4)

(名護・愛楽)ここは病院だといって赤十字のマークをつけたら爆弾が落ちないんですよ。で、それ進言したわけですよ。赤い赤十字をたてるといったらですね、ここに爆弾を集中させておけば、軍人のほうは軽くすむんじゃないか(1)

(池間島)連日の空襲で学校も廃墟の様になりそのショックで校長は精神異状を来たしました。(?)

(3)「各市町村史等」から
(東風)ひたすら歩くことによって不安からのがれようとする心理(38)

(佐)場天ギタにいる間、煮炊きは昼でした。夜だと中城湾の米軍の軍艦に明かりが見えるからという……。(48)
(佐)死者を見たのは知念村、具志堅での一人だけ。父の言った「軍隊のいない所には弾はこない」という言葉、志願した時、「教職の身だ、軍に行かなくてもよい」といった校長の言葉を守ったおかげ……。(48)

(佐)ヤンバル疎開し、食料を取りに戻ったが、…でヤンバルには戻れなくて、二カ年、捕虜となって再会した。(53)
(佐)義父母が家に残った〜米軍に捕まった難民がたくさん入ってきたらしく、義父母は「家に人がたくさん入ってきて、鍋も釜もみんな取られているよ。早く壕から下りてきなさい」……。(54)

(佐)自分の墓に入ろうとしたら、他の人が入っていて、「ここは死んだ人が入るところだ、お前さんたちは出ていきなさい」と追い出された(58)
(佐)六月頃から負け戦だと感じたので、兵隊と離れ女子どもだけで集団を作り、独自行動をするようにした、結果的にこれが良かった。(60)

(佐)光枝がよく泣いて、周りの人たちに「泣く子は殺せ」と言われたので、私は必死で光枝を……。(63)
(佐)…夫は県庁職員とてどうしても戻るといいはるのに、父親が戻るのは死ににいくようなものだ、今度だけは親の言う事を聞いてくれないか、息子を捕まえて離さない。(68)

(佐)最初はタケーシという地元の人の家に割り当てられました。その時は、食料を分けてもらい、あまり苦労することはありませんでした。(73)
(佐)手榴弾で自決する友を目の前で見る。(26)
(佐)女性として用足しに不安。生理も止まっていた3、4回ぐらい我慢していた。(35)

(佐)軍隊の靴は大きくで歩きにくいし、履かないと痛くなるなし、落ちているを拾って履いたり、倒れている人のを脱がして履いたりした。(36)
(佐)負傷してしばらく苦しんだハツ子に日本兵が手榴弾を投げようとした。ハツ子は「手
榴弾を早く投げて、早く投げて」と叫んでいた。(36)

(佐)山原避難中、日本兵に喰ってかかり、軍属にしてもらった。(42)
(佐)辺戸岬から与論島に渡り、本土で決戦に参加しようとした。(42)

(知)埋葬された場所に行っても、それほど悲しいと思わず、涙も出なかった。かえって「あなた方は埋葬してくれる人がいて野ざらしにもされず、ちゃんと埋葬され幸福だ。」という気がした。(5)
(知)おばあさんは、子供みたいな貴方が友軍の兵隊さんと一緒に行動したら大変危いから、私が孫みたいにするから私達と一緒に居たらどうかと推められた。(6)

(南)一軍人が胸まで泥水の中に倒れていて、口もきけないけれども人々が側を通る度に目をあけて何かを訴える様子をしていたが、私達はそれらの人々をどうすることも出来なかった。助けようとしてもこの様な戦場では、とうてい無理な話である。こんな状況の下では、例えこんな人々を助けたとしても、どこへどう運べばよいのかも解らないし、なお一寸先は自分自身さえどうなるか解らない戦場である。(6)

(南)その中には大家族らしい一団があって、父親らしい人は天秤棒で両側にいっぱいの荷物を詰めた袋を担いだ姿で倒れているし、母親らしい人は頭の近くに大きな荷物の袋が転ろがっている。老人の姿も見られるし、数人の子供達は一列になって点々と離れ離れになって死んでおり、小さな荷物がその間に転ろがっている。この一家はここで全滅したのではないかと思った。(6)

(南)そこで、外に出て戦車にひき殺されようとしたんです。側は道だったので、戦車はひっきりなしに通っていました。「どうせ怪我もしているし、ここにいても苦しんで死ぬだけだから、もう出て行こう。戦車でひき殺されようが鉄砲で撃たれようが、敵に弾を使わせるようにしたほうがいいよ」とお祖母さんに言って外に出ました。2人とも死ぬ覚悟で出たのです。私は歩けなかったので、着物の帯を強くしめて、お祖母さんにもたれて引っ張られて出たんです。(8)

(南)もっと驚いたのは、死んだ人の懐に手を突っ込んで金品を探す人がいたことであった。(13)
(南)ここで印象に残っているのは、古謝さんという人が家族全員を薬で自殺させたが、自分は死にきれず口から泡をブクブク出してフラフラ回っていた。(13)

(南)日本兵に米兵の怖さを教え込まれていた人たちは、捕まっていたずらされるより、自ら死んだ方がいいと考え、山川でも4、5人の若い女性が、井戸に飛び込んで死んだ。(14)
(南)ところがまだ乳飲み子だった娘の房子が、私のおっぱいが足りなくて泣いたために、「飛行機にチカリンドー(聞こえるよ−)、出なさい、出なさい」、つまり子供が泣いたら米軍に聞こえて攻撃されるので、壕から出なさいと言われたのです。(22)

(南)壕の真ん中に水が流れていて、死人やまだ生きている人も、水の中に入れられ踏まれていた。(23)
(南)私達は「ここで死んだら、私達もあんな風に踏まれるんだねえ」と思って、死ぬなら外で死のうといって外に出ようとしたが、壕の入口に門兵が立っていて、出してくれなかった。(23)

(南)ここで死のうと思って、親類6人くっついて、手榴弾の信管を抜いた。しかし不発で死ねなかった。(23)
(南)地面に流れるおびただしい血が、裸足の爪を赤く染めた。(25)
(南)私はおばあさんを助ける力がなかったため、そのままにしていたのです。おばあさんは口をむずむず動かすだけで、もう虫の息でした。(25)

(南)米軍から投降の呼びかけは何度も何度もありましたが、火炎放射器か何かを壕の中に撃ち込むというので、とうとう出ることになりました。(26)
(南)当時は男も女も1週間に1回顔を洗うぐらいで、お風呂なんてないでしょう。だから、パンツや洋服にシラミが何十匹とついていました。(27)

(南)突然、菊がよろけて座り込むようにして倒れた。心臓発作である。あまりに怖いことが続いたために、発作をおこしたのだ。 (29)
(南)当時の教育では、捕虜になることは最大の恥であったし、米軍への恐怖感もあった。(29)

(南)周囲が完全に火にとり囲まれたとなると、思いもよらぬ恐ろしい旋風が起こりだした。凄い勢いの風で、秒速20メートルはあり、煙に大さな火の粉を交えての恐ろしいものとなった。(30)

(南)昼間は隠れていて、歩くのは夜であったが、途中いやと言う程の死体を見た。身体が倍以上に膨れた死体、内蔵が飛び出した死体、ウジ虫だらけの死体。死んだお母さんのオッパイを無心にしゃぶっている赤ちやん。内蔵が飛び出した日本兵が「水をくれ!」と懇願していたがどうすることもできなかった。最初は気持ちが動揺したが、何度も何度も同じ光景を見ると、あとは何も感じなくなってしまった。(31)

(南)そのうちアメリカの軍艦から「おかゆも何もかもできてますから、避難民がいたら出てください」と日本語の放送が流されるようになりました。嘘だと思ってそのまま隠れていると、4−5日して上からガソリンをまき始めたので、仕方なく上に出て行きました。 (34)

(南)本部を後にして山川にさしかかったときに、山川の人がいたので、「小さい子どもを連れて行くのは大変なので、ここに一晩泊めてください」と頼んだら、「ここの壕はいっぱいだから入れることはできない。早くあっちに逃げろ。敵にみつかったら俺たちもやられる。」と言って追い返されました。(35)

(南)山川橋のところもたくさんの人が死んでいました。橋も壊されていたので死んだ人間を積んで、みんなは橋のように渡っていました。(35)
(南)途中、家族に置いていかれて泣いているお年寄がたくさんいた。(39)

(南)もう11月になっていたが、叶さんと長田軍曹と私の3名で食料をさがしに来てすると人の話し声が聞こえたので、スパイだと思い2人が銃で撃った。4〜5名のうち前にいた2人が倒れた。後でわかったことだが、船越の収容所あたりから食べ物をさがしにきた一般住民だったらしい。(40)

(南)こっちが安全かなあっちが安全かなと西へ行ったり東へ行ったりしながら山道をさまよう毎日でした。どこへ行っても山が燃えて火の海になっていました。昼はあまり見えなくても、夜になるとあちこちが燃えているのが見えるんです。(43)

(南)父の右手と左手のヒジから先は、弾の破片と爆風で吹っ飛ばされてしまいました。(43)
(南)父はこんなケガをしても、子供を守るという気持ちが強かったのでしょうね、家から持ってきたカツオブシやミソなどの食糧をスコップの両端につるして、肩だけで背負って私たちと糸満の真栄平に行きました。(43)

(南)たくさんの死体の中に、まだ1−2歳の赤ちゃんが生きていて、死んだお母さんのおっぱいにしがみついてかすれ声で泣いていました。(43)
(南)女がアメリカーにつかまったらオモチャにされるという噂があったんですよ。男は船に乗せられて外国に連れて行かれるとかね。(43)

(南)何日も水を飲んでないから、のどがカラカラなんですよ。黒砂糖をかんで、それで唾を出すくらいですから。(43)
(南)やがて真栄平付近も戦場の様相となっていった。日本軍の斬り込み隊が行き来するようになった。斬り込み隊の一人が墓の前で負傷したり、近くにいた避難民がやられその内臓が木の枝にぶら下がっていたり、負傷した日本兵の足を隊友が切断していたり、やられた一中生を学友が埋めていたりするのを見た。また砲弾の直撃のため土砂に埋まった二高女の学生の「助けて!」という叫び声が聞こえたり、水汲みに行った親戚がやられたりしたが、私の家族は全員無事だった。(47)

(南)真栄平を出たのは6月15日だった。米須部落を右に曲がると、照子姉さんがひめゆり学徒隊と思われる女学生と話していた。真壁や米須付近は避難民でいっぱい、まるで「人間銀座」の状態だった。(47)

(南)大里第二国民学校の教師をしていた姉は、学校の重要書類を預かり持っていたので捕虜になることを拒んだ。母は姉にカツオブシと黒砂糖を渡した。姉は父がニューヨークから送った純毛の布地で作った女子師範の制服を着けていた。姉は手榴弾を持ってアダン林の奥へ消えていった。(47)

(南)二人で話に夢中になっていたら、すぐ弾が飛んできて、伯母さんの首がふっとばされて…。アキサミヨー(ああ大変だよ)、すぐ目の前で。伯母さんはパッタイパッタイ(七転八倒)して動いていた。(50)

(南)末っ子の房子は泣き虫だったので、一緒にいた人たちに嫌がられて、「汝ヌ童ヌタミナカイ、ウママデイ殺サリーネーチャースガ。捨ティレー。(あなたたちの子どものせいで、私たちまでやられたらどうするのか。捨てなさい。)」と言われて、私のお母は、もうどうしようかね−と考えたらしいよ。(50)

(南)その時、(前嘉良々前、屋号)のお父が、死ぬときはみんな一緒だから連れておきなさいと言ってくれたから最後まで連れていたらしい (50)
(南)あの時はみんな大変な時だからかもしれないけど、私が盛光を助けて連れていると、なんで助けたかと言う人もいたよ−。(50)

(南) 戦争の最中でも金の取引があった。砂糖などは普段は1斤2円しかしなかったのに、この時は10円もしたのには驚いた。(13)
(南)大阪出身の兵隊さんが近づいてきて、「私たちは住民は殺さない。沖縄の土になるために戦っているのだ」と言っていた。(14)

(南)男の人達が部落や壕に入って芋や大豆を畑からとったり、隠してある米を盗んだりして、みんなで分け合って食べていました。部落の人にはとても迷惑をかけました。部落の人も盗まれないように知恵をだしたのか、壕に置いた米の隣に布団や枕をきちんと敷いて、そこに人が寝ているようにみせかけていたそうです。(22)

(南)陸軍病院壕からも、負傷兵たちが山川の方に逃げていた。山川橋から東風平にかけての通りは死人の山で、歩く人がそれを道端に寄せ……。(23)
(南)それから伊敷の自然壕に逃げた。壕の中には避難民がたくさんいて、日本兵や糸満警察の人もいた。(23)

(南)私たち親子4名はとある民家で4〜5日泊まっておりましたが、すぐに空襲が始まったので、軍の大きな防空壕に避難しまし。そこには1週間ほどいましたが、その間にはすでに米軍が沖縄に上陸していたようです。(46)

(南)島尻から来た人から「島尻は何の被害もない。戦争は日本が勝っている」との噂を聞いたので、私たちはそれを信じました。そして家に帰ろうと思い、昼間歩いて夜は山で寝泊まりしながら島尻に向かったのです。(46)