徴兵と日本軍

ここでは、徴兵と沖縄戦関係の日本軍について回答しています。

22−徴兵−1]軍隊に参加させられたのは何歳からですか。
    普通兵隊という場合は、陸軍と海軍の軍人をいいますが、他にも、軍隊に参加させられた人たちもたくさんいます。そこで、これらについて説明いたします。なお、ここでは、軍隊に参加させられた人たちが圧倒的に多かった陸軍についてのみ説明し、自ら職業として軍人(職業軍人)になった人や志願兵が主流だった海軍、軍属のことについては省略します。

1兵隊…17歳以上の男子
〇成人男子は満17歳になると徴兵検査を受けなければならず(昭和19年改正)、次の結果を受けます。(※法の改正により、それまで20歳だったものが、1943年に19歳へ、1944年に17歳へ切り下げられていった)
〇甲(こう)種、第一乙(おつ)種、第二乙種…以上合格。
〇丙(へい)種…身体上に欠陥があり、国民兵役には適する。
〇丁(てい)種…身障者など兵役に適さない。
〇戊(ぼ)種…未決囚(みけつしゅう)など兵役の判定が出来ない。
〇合格者は兵役に服する(入営する)ことになるが、必要な人数のみが抽選で入営したが、戦況が悪化してくると丙種でも徴兵されて、次のような経過をたどりました。

(1)徴兵検査合格者(甲・乙・丙種)

@入営して軍事教練を受けた者
〇「現役」として2年間軍事訓練を受け、「予備役」に移る。
〇「予備役」は、普通の生活に戻るが、必要に応じて召集を受けた。15年4ヶ月後に「第一国民兵役」に移る。
〇「第一国民兵役」は満40歳までで兵役の義務を終わる。

A入営しなかった合格者(甲・乙・丙種)
〇第一補充兵役と第二補充兵役に分かれた。12年4ヶ月の間に120日以内の教育召集を受ける。その後第一国民兵役に回される。
〇第二国民兵役は、満17歳以上40歳までの軍隊教育を受けなかった者で、その間、召集があれば応じなっていた。

(2)つまり、満17歳以上40歳までの日本国民は、次の者(一部の例外)以外は兵隊にとられるということになっていました。
・兵役不適格者…兵役検査で丁種とされた者
・兵役免除者…重度の身障者
・徴兵延期者…病気や未成熟で翌年再検査の者→合格すれば兵役に。
・女性…職業としての従軍看護婦等は除く。
※兵役に服すといえば陸軍のことで、海軍は志願が原則で少数でした。
※召集とは、現役以外の兵役にある者を軍務(軍隊勤務)につかせる事を言います。(令状が赤色だったので、召集令状のことを赤紙と呼んだ)

〇満17歳になったら、「志願兵」というしくみがありました。そこで、学校や周りの者たちが「志願」することを強制したり、勧めたりして、戦争に参加させたこともあります。(これも1944年に14歳以上であれば、17歳未満でも志願できるように法を改正しています。)
                  (参照「兵役法」「義勇兵役法」その他)

2現地召集兵…17歳以上
    沖縄戦が始まると、徴兵検査を受けることができなかったので、それぞれの部隊のある現地で徴兵該当者を「現地召集兵」として部隊に組み込みました。きちんとした検査もしていませんから、生年月日や年齢を聞くだけですぐ召集でした。また、「予備兵」の中からもその場その場で現地召集された人もたくさんいます。

3防衛隊…17歳〜45歳
 沖縄戦では、法律では兵役を終えた41歳以上の人たちや17歳に満たない若者、さらに身体障害者なども問答無用で防衛隊という軍隊に組み込み戦争に参加させています。

4義勇隊…男子15歳以上、女子17歳以上
〇男子は15歳から60歳まで、女子は17歳から40歳までの者を徴兵できる「国民義勇兵役法」が1945年(昭和20)6月22日沖縄戦の終盤に制定されました。
〇しかし、沖縄戦の最中、この法律の先取りが行われて、防衛隊員や兵役に取られなかった者や上級学校に行っていない青年学校の生徒15歳以上の男子と女子青年を中心にして義勇隊が組織されて戦場に動員されています。

5学徒隊(鉄血勤皇隊・学徒看護隊)…男子15歳以上、女子17歳以上
〇男子は、15歳以上の学年が、陣地構築、通信、情報宣伝、弾薬運搬、斬込みなどに戦場動員されました。
〇女子は、17歳以上の学年が補助看護婦として戦場に動員されました。
 学徒隊は、「戦時教育令」によって組織された「学徒隊」としての任務で動員されました。学徒とは、国民学校初等科、青年学校生徒以外の生徒のことで、その任務は、食糧増産、軍需生産、防空防衛などとなっていました。
 沖縄戦における学徒隊はこのうち防衛防空の任務として動員されたと思われますが、男女とも、初めは「陣地構築、戦時教育」としての学徒動員でしたが、アメ リカ軍の攻撃・上陸に合わせて現地部隊に組み込まれています。
    志願を建前としましたが、県と軍との取り決めで実施され、学校を通しての動員でしたから、有無を言わせない体制といえます。  (参照「学徒隊」・「学徒動員の実態」)

6補助看護婦…17歳?以上
 これは、組織的には行われてはおらず、各部隊で現地の青年学校女子生徒の中から動員しています。年齢は不明ですが、多分17歳以上であったことは十分予想されます。

7農兵隊…15歳以上
 これも、上記と同様で、地域によって組織されたもので、農業青年を日本軍の食糧増産に動員しています。年齢は青年学校生徒ですから、15歳以上と考えられます。

8護郷隊…17歳?以上
 この部隊は特殊な部隊で、現役を終えて帰ってきた元兵隊(予備役)が幹部となって、地元の17歳〜19歳の男子を教育し、戦場に動員していました。この中には学徒隊も組み込まれています。
    三二軍の直轄部隊で、ゲリラ戦も行う特殊部隊の役目を負っていました。「遊撃隊」ともいい、沖縄本当に2部隊、宮古・八重山にもありました。

9その他…他には、軍の救護隊や炊事婦、防衛隊でとられた医者と共に動員された看護婦等がいますが、年齢は不明です。

23−徴兵−2] 当時の人たちは戦争に行きたいと思っていましたか 。

 沖縄は長い間武器を持たない歴史が続きました。明治時代になって、いきなり「徴兵検査」という軍隊の制度が持ち込まれてきましたが、それに対して沖縄の人たちははっきりと拒否反応を示しています。例えば、徴兵検査に親族一同でやってきて、「検査不合格」が出ると大喜びをし、家ではお祝いをしました。逆に「検査合格」となると一族一同、葬式並にお悔やみを言い合いました。
                (参照「日本軍は沖縄県民をどう見たか」)

 しかし、その後の「教育勅語」に基づく皇民化教育で、「天皇のために命を捧げることが名誉なこと」だと教え込まれていましたから、多くの人たちは、戦場に行って天皇のために戦うことが当然だと思っていました。特に、学徒隊の中には、早く戦場に行きたいと思っている人もいました。国民学校の学童たちはもっと強くそのことを考えていたし、憧れでもありました。俗にいう「軍国少年少女」というものです。

 沖縄戦が避けられないことが十分予想された頃、軍と県の協力を受けた学校からの「学徒隊参加の親の承諾書」も、多くの生徒たちは説得してでも親の承諾を得ましたが、中には親の反対を押し切って勝手に参加届を出した生徒もいました。また、体が弱かったり、集合時刻に間に合わなかったりして、参加出来なかった生徒の中には悔しい思いをした生徒もいました。

 しかし、これらのことが真に「戦争に行きたい」という生徒の思いを表しているのかどうかは疑問です。なぜなら、「戦争に行きたい」という気持ちと「戦争に行かなければならない」という気持ちは違うものです。真面目な性格の沖縄の若者たちが、「行きたい」のではなく「行かなければならない」と強く考えたとしても不思議ではないからです。

    また、「行きたくない」が通る社会ではありませんでしたから、逆に「行きたい」と言って自分を納得させていたのだとも考えられます。自分の本当の気持ちを表に表すことができない社会の中で、自分の本当の気持ちをごまかすことによって、自分の苦しさから逃れていたのかもしれません。

 一方、もっと上の成人した大人たちはどうだったのでしょうか。多くの証言からわかることは、個人差があって全体としてなんともいえませんが、多くの人は、戦争に対して「いやだ」という気持ちを持っていました。しかし、それを言える社会ではなかったという証言もたくさんあります。そこで、自分を納得させるために「そういう世の中だから…」というあきらめたような気持ちでいることが多く見受けられます。

    若者は、あきらめることは敗北だと考えます。ですから、全く逆のことを強く主張することによって自分の気持ちを押し隠しますが、大人は、はっきりとあきらめの気持ちを表します。この二つの気持ちの違いは、根本は同じことのように思えます。

 息子を兵隊や防衛隊に送る、若い夫を兵隊に送る、夫を防衛隊に送るなどの母親として、妻としての女性の気持ちはもっと複雑です。というのは、表面には言葉として表現されているのはあまり見当たりません。自分の考えをはっきり言う習慣のなかった時代のせいでしょう。でも、戦場で多くの困難を抱えて避難している行動の中から、戦争でもっともつらい思いをするのは女性であることがひしひしと伝わってきます。ですから、女性の証言には、男性の中に一部見られるような自慢めいた話は全くありません。そのことからして、口に出さなかった女性は、明らかに戦争に対しては「行かしたくなかった」ということが言えるのではないでしょうか。

    沖縄戦に関係することではありませんが、次のような記録があります。
 軍隊にとられる仕組みは、徴兵検査の合格者名簿から、「連隊区司令部」という役所が召集令状を出すのですが、当時、連隊区司令部に対して金品を贈り、名簿から自分の名前を削らせたり、悪い病名を書かせたりした人がたくさんいた、という記録があります。このように出来る人は、もちろんお金持ちやその役所の役人と親しい人たちしかできないわけですが、軍隊に「行きたくない」という気持ちは同じだったどいえるでしょう。あるいは、「天皇のために命を捨てる」という考えを心底たたき込まれたのは、地位も金もない一般住民だけだったのかもしれません。

    関連1 兵隊や天皇に対する住民の声はどんなだったのですか。

[証言から]
〇ここ西原(平良市)はそれまで山上部隊の管かつでして、野菜なども、ヤマガミ隊に供出していました。それが続けられる上に、碧(部隊名)が割りこんできて、無理に押しつけてくることになると、いくらおとなしい部落の幹部も、それを受付けるわけにはいかない。そういうことで衝突もたえなかったわけです。3名ぐらいは部落民になぐられたわけですね。そういうことで、碧部隊は最後まで人気は悪かったんですね。(一般)

〇地方に行く程、物資があるのです。白米、罐づめ類が。将校たちも治療に来るのですが、治療は二の次で、昼間から持参した日本酒を、私の借家で飲んでいました。軍規は乱れていたのです。(医者)

〇天皇はにくいやつだ、私の大事なヤマ(編注、「私」の息子の愛称)を殺させていて、自分はのうのうと生きている。天皇がヤマを殺したのだ。そういって泣いてきました。でも、去年あたりからは老衰で分別つかなくなって、天皇のことも忘れてしまったようです。ただしくしくなくばかりです。(女性)

〇日本軍が宮古島に来た当初は甘藷の供出なども喜んでしていたらしい部落の人たちも、「いもはないよー兵隊さん」といって、かくしたりしていた。兵隊が別の部隊と食糧のうばい合いをして対立してけんかしているという話も聞いていました。(主婦)

〇軍医予備員として歩兵隊に入隊して、私たちだけ特別な教育を受けたんですが、歩兵としての基本的教育なんですね。これには抗議しましたよ。「私たちは医者であって、医者には医者としてのやることがある。どうせ軍隊で使うというんでしたら、陸軍病院に配属しろ」と、いいましたね。(医者)

〇補給が絶えた島の中で、軍部の中枢あたりにはかなりの資材食糧が保管されていた様です。(一般)
〇私たちの場合いそういうと変にきこえるでしょうが、たいへん落着いていたように思います。敵が上陸してくるという話をきいても、心の動揺はありませんでした。それにひきかえ、兵たいたちは大分、動揺の色を示していました。(学徒看護隊)

〇戦争中、私のうちには、よく兵隊が出入りしました。たいがいきまった兵隊で、それはもう「ものくう(物喰う)」主義でした。兵隊がにわとりをもってきて、これをたいてくれということもありました。うちでは山羊を屠ってごちそうもしてあげました。中には、罐詰をぬすんできてくれる人もいるにはいました。しかし、恩義もない軍曹もいました。(女性)

〇とてもこわい目にあったのは。伍長と兵長の2人でした。近くの「オジイ」部隊ではなく、若い人でした。畑からの帰りをねらっていたのです。陽のある時間でした。素面です。まちかまえていたのです。そのとき、私は夢中で叫びました。「私は学生です。学生です」と。その声に相手は気をゆるめたのでしよう。あやうい処で難をのがれ、私はうちへかけこみました。うちの近くだったから助かったのだと思います。(女性)

〇軍が宮古に上陸してきてから、そのやることなすことは大変なものでした。私は支庁長の命に従って、従来の線でおし進めたんですが、軍側は、「頭をきりかえ、経済業務はすべて自分らにうつせ」とせまりました。そのとき私は、はっきりいいました。
「それはできません。戒厳令(かいげんれい)は出ていないじゃありませんか。私は、軍命令ではなく、地方長官の命で動かなければなりません。」と。
「よろしい、わかった。」と答えましたが、しだいにひどすぎることが現われてまいりました。(経済課長)(以上「平良市」)

〇あげくのはては蹴る殴るなどの暴行を加え半殺しにした。そのような暴行をうけたのは十数人ぐらいいた。みんなの集まっている面前でそのようなことを平気でした。多分、国に文句を言うのはこのようなことになるぞと、みせしめのためであったろう。実にでたらめであたった。しゃくにさわった。(一般)

〇献木というのもありましてね。これは当時の農村ではイヌマキなど一等の建築材は、…虫よけの作業を5、6年もする。それから持ち帰って材木小屋を作ってそこで保管する。毎年山からとって、貯えていく。一家を造る為に10年ないし15年計画で、材木は揃う。…これを唐突に、「勝つために」献木を命ぜられるのです。70歳80歳の老人は、ほんとに泣きましたよ。親子二代かかって仕上げる計画ですからね。一生の大事業が、献木の命令一つで、おじゃんですからね。ほんとに泣いていましたよ。「勝つために」ではなく「略奪するために」という印象が、どうも消えませんね。(一般) 

〇(軍の「献木」に対して)今考えると、誰の所有物なのか全くわけのわからない無茶な話であった。…私の場合は瓦までとられたのでほかの人たちより怒りがおおきかった。(一般)

〇「…君達が途中で敵に沈められて死のうが、内地で凍えて死のうが、僕の知ったことではない、この計画は畏(おそ)れ多くも陛下の定められたもので、今さら変更するわけにはいかん。」と実にむちゃくちゃなことを言った。(部落役員) 
〇軍隊は、住民と苦楽を共にし、住民と共に戦うという考えは毛頭なく、いかに住民を抑圧し収奪するかという考えしか持たないように思えた。(一般)
〇軍隊は、占領者顔で、その地域を支配し、住民を酷使する。(一般)
〇「軍の命令」とさえ言えば、住民を犬畜生以下に扱い完全に無視して何でもできる時代でした。(台湾入植者)

〇何も考えないで、ただ令命、命令といばるのが軍隊であったようです。(同)
〇マラリアと戦いながら山林をきり開いて作った農作物もほとんど軍に供出されることが多かった。また徴用に出ているときによく農作物が盗まれることもありました。たいへんくやしい思いをしました。でも戦争ですし、台湾人とまたしかられはしないかと思い、怒りをおさえていました。(同)

〇田畑で使用している牛や馬をその場からとりあげられた例もあります。軍の命令がすべてをきめてしまう時代でしたから。(一般)
〇警察からの指令で、灯火管制はきびしく白衣など目だつ服装で通行することも禁止されていて、それらを取りしまることも私たちの任務として命じられていました。…私は即座に「白地など目だつ服装で出歩くことは禁じられていますから帰って着がえるように」と注意しました。私は彼が憲兵だと、ましてや隊長だとはつゆ知らず、注意したわけです。…意識を失う程に殴られたのです。…私たちの言い分には全然耳をかそうとせず、一方的に私に暴行を加えるのです。…仕事の怠慢で暴行されるなら耐えられます。が、仕事を忠実にやって殴られるということがあり得るのか、日本兵が、いかにもの分りがわるく、一方的高圧的で、住民をも敵視していたかの証左です。(警防団員)

〇どこの学校の奉安殿の前にもビャクシンがあった。ビャクシンの濃い緑の針状の葉は、天皇守護神の天照大神の権力を表徴(ひょうちょう)として、否応なしに私の服従を強制する顔つきみたいで、私の心の秩序を乱した。このビャクシンに対しては私は精神的アレルギーを感じてしまったらしい。(学生)
〇「…兵隊をどんどん1セン5リンで集めて、この島にやる、あの島にやる。それでも足りない。それでも足りなくても欲ばりだからね。今にたいへんなことになるよ」と私がいうとね、T先生は、「おばさん、こんな話、参謀長に聞かれると、大変な目にあいますよ」。すると私は、「なぜ大変なことになる?ひとばかりおどして、兵隊ばかり取っていって。誰が戦争やれというたの」というて、けんかをしておったのよ。(女性)以上「石垣市」

[解説]
    軍隊や天皇に対する気持ちの表現は、とても微妙なものがあります。上記の証言は、宮古島、石垣島のものですが、県内でも、それぞれの地域によって証言に特徴があります。証言の中で、軍隊に対してはっきりものを言っているのは宮古・八重山の証言に多いです。本島の場合は、いろいろと不平や不満はもっているが、直接軍と衝突しているのはわずかで、区長など役職のある人が軍部隊の幹部に文句を言っている場合です。それもまれに出てくるぐらいです。一般の人たちは、あきらめて自分の胸におさえ込んでいる場合が多いのです。

 さらに離島の証言では、不平や不満は表面に表れているのもほとんどなく、軍の言いなりになって行動していたようです。おなじ離島で、住民のほとんどが本土の人たちだったせいか、軍と住民はうまくいっていたのではないか、という南大東島の例もあります。

    このような違いは、その地域の人たちの特徴なのか、それとも、日本軍に対する気持ちの違いなのか、それとも、宮古・八重山に駐屯した日本軍の行動がそれほど強圧的であったのか、いくつかのことが考えられます。そのいずれかでもあり、あるいは、すべてであるかもしれませんが、とてもおもしろいと思います。

    いずれにしても、表には出さなくても、全体にわたって日本軍に対する不平や不満はかなりあったことは、証言の端々から十分に想像されます。一方、天皇に対する気持ちというのは、ことばとしての表現された気持ちとしても、また、隠された気持ちとしてもあまり出てきません。天皇に関する言葉が表れてくるのは、やはり、「天皇のため」にいう精神や心構えだけが強調されて出てきます。

    自分の置かれている悲惨な状態が、直接的にも間接的にも天皇と結びつけることが出来なかったと思われます。つまり、自ら「天皇のために」戦っていると思っていながら、その相手である「天皇」が頭の中に浮かんでこなかったのではないでしょうか。それは、「天皇」の存在が現実にない(神としての存在、直に見たことがない、御真影という写真さえ顔を見ることは許されなかった)ということがそうさせたのかもしれません。つまり、人間は、自分の頭の中でイメージできないことに対しては、自分の感情を沸き立たせることはできないからです。

    その意味では、天皇政府が、天皇を神として位置づけ、国民から遠く離れた存在(例えば「雲の上の神様」の絵など)として教え込んでいったことは、天皇に対する一切の反応をもたせないためのやり方として、まさに国民にとって天皇は「神」だったのです。

24−徴兵−3]日本軍(兵)の沖縄の人に対する考え方はどんなでしたか。

   一人一人の日本兵が沖縄の人たちをどう思っていたかについては、そのすべてについてわかるはずがありませんが、数多くの証言の中ではいろいろな関係がでてきます。つまり、ありがたいという気持ち、同情している気持ち、友達のような関係もあるし、逆に憎らしく思っている兵もいるし、馬鹿にしている者もいます。千差万別です。それは人と人との関係でどうにでも変化するもので、沖縄戦が始まってから後、日本兵と沖縄県民(住民はもちろん軍人も)の関係は悪化していきます。そうなっていくにはいくつかの理由があったのですが、ここでは、その背景となったことについて触れていきます。

 軍隊として戦争を進めていく日本軍(沖縄の人たちは「友軍」と呼んでいました)が沖縄の人たちをどう見ていたかについて、その時その時の日本軍の関係資料の中からみてみましょう。

 「徴兵令」(男子が20歳になれば徴兵検査を受ける法律)の施行は以外に古く、中央が1873年(明治6)で、沖縄での施行が1898年(明治31)でした。徴兵事務を進めるために、「沖縄地区警備隊指令部」という役所が設置されましたが、1918年(大正8)「沖縄連隊区司令部」と名前を改め、第六師団(熊本に司令部)の下におかれました。 そして、太平洋戦争の終わり頃、1944年(昭和19)「第三二軍」が設立されたのです。

    明治・大正・昭和にわたって沖縄にいた日本軍関係者は、沖縄(人)に対して、どのような見方をしていたのでしょうか。(分かりやすくするために意訳した項目もあります。)

・ 軍事思想がなく、困ったものだ。
・ 無学で軍隊の事情を知らず、徴兵検査を逃げる者がおって困ったものだ。
・ 徴兵検査に「親戚や知人」がやってきて、検査が不合格となると喜んではしゃぎまわ り、検査に合格すると気の毒がっている。

 そのような県民に対して本土の役人は、1910年(明治43)「島尻郡達」、1911年(明治44)「兵役義務励行規定」を作ってそれぞれの役場や学校で軍事奨励をしました。 ( 以上「島尻郡誌」)

・ 徴兵検査において「普通語」を知らないのが多すぎて検査がはかどらない。
・ 軍事思想が不十分で、まあまあ良いと言えるのはせいぜい島尻郡の離島と八重山だけ で、他の地域は話にもならない。
・ しかも、島尻郡本島の各村、中頭郡の各村、国頭郡の本部村、今帰仁両村のごときは 徴兵検査を逃げる者が多くて困ったものだ。これは、沖縄県民に「勇気」が無いから である。

    大正期になると、軍事思想は幾分良くなってきたといっていますが、次のような沖縄県民の人格に関する見方は明らかに偏見(へんけん)であり、差別意識といえるでしょう。

・「皇室国体」(天皇中心の国のあり方)に関する考え方が徹底していない。
・進歩しようとする気持ちが薄く、物事の決断が遅く、意志も相当に弱い。
・行動も鈍く、気持ちものんびりしている。
・自分中心で、その場逃れの態度が強い。
・権利とか義務という考えが乏しく、上司の命令に服従するが実行力がない。
・権利を主張する者でも、他府県人にはすぐ屈従するが、同じ沖縄県人に対しては細かい ところでも譲らない。その裏には、他府県人は自分たちより優秀だと思っている。
・無気力でけじめがなく、責任感も弱い。
・利己心が強く、自己の利益のためには他人は省みないし、一時の利益を得るためには、長年築き上げた信用を失っても何とも思わない。
・文化レベルが低く、家庭において、「国家のこと」、「忠君愛国」「貞婦」などについて、親が子どもに話すことはない。そのために子どもは放任され不良少年が多い理由となっている。また、不良青年と不良老年が多いのも見過ごすことができない。
・「盗癖(とうへき)」がある。
・ 向上発展使用とする気構えもない。
・心も貧しく、すぐれた講話を聞いても感動もしない。
・特に婦人の見苦しい服装は他には例がないほどである。
・規律の心もなく、整理整頓もしない。これは軍隊生活にとって最も不適当な悪い習慣である。

    これだけの欠点を揚げられれば、反面長所もあるだろうと思うのが人情ですが、この資料では「長所」を次のようにあげています。

・長所としてほめられるのは少なくて遺憾(いかん)である。比較的長所をあげれば、・服従心に富んでいる。・従順である。理屈を言わないで「使い易い民」である。したがって、沖縄出身の軍人は、「歩哨斥候(ほしょうせっこう)」(戦場で自分の陣地を守る当番や敵の様子を調べる任務)のような自分で判断する任務には向かないが、命令されている間は、困難に耐えて勇敢である。
      (詳しいことは「日本軍は沖縄県民をどう見たか」を参照)

 日本軍関係者は、「皇国」「軍隊」の立場からこのように沖縄県人をみていたのですが、そのような「歴史的負い目」を払いのけるために、県や市町村や県内の指導者たちは、あらゆる場で沖縄県民の意識を変えるために「教育」に力を注いでいったのです。その結果どういうことが表れてきたのか、それは別項目で触れていきます。(参照「7-戦争被害-7」

    さて、いよいよ昭和期に入っても、日本軍の見方は基本的に変わりませんでした。

・沖縄県民は、基本的に恩を忘れ、自分の利益を求める傾向が強い。(編注・もちろん、ここで の「恩」というのは、「天皇国家のご恩」のことです)
・この地域はデマが多く、「スパイ防止」上も極めて警戒する必要がある。
・住民がきびきびしていないから、自動車事故が発生している。
・以前は徴用を免れるため、自分の体を傷つけたりした者がいたが、最近は、同じ理由で「軍人」ではなく、「軍属」に入ろうとする者が増えている。

 沖縄戦に配備された日本軍は、その多くが住民地域に部隊を配置し、民家に居住していました。そのため日本兵と住民の個人的接触は強かったので、当局から日本兵に対して次のような注意事項も出てくるようになりました。

・沖縄県民の手紙には軍に対する不満、反感を書く向きがあるので、普段の住民との接触 には十分注意し、みだりに軍のことを話さないこと。
・沖縄出身初年兵が「従軍免脱(編注・じゅうぐんめんだつ、戦場に行くのを嫌がってわざと負傷すること)」をはかり、自身を痛めた事件があるが、それは言語の相違と能力が低い のが原因だから、初年兵教育には注意するように。
                                                (以上「浦添市史」から)
 とまあ、こんな風に日本軍は、長期にわたって細かに沖縄県民を観察した結果をもとに沖縄県民を「皇国」の「臣民」としても、「軍隊」の兵隊としてもふさわしくない、と判断していました。

25−日本軍−1] 祖父たち(防衛隊)がいた部隊はどんな部隊でしたか。

 沖縄戦の守備にあたったのは、主として、陸軍の第三二軍でした。三二軍は、「台湾方面軍」の下に編制された部隊で、3個の師団、7個の旅団、そして、連隊、大隊、中隊、小隊、分隊というような部隊が組合わされた一つの大きな部隊でした。

 他には、海軍部隊(中心は大田司令官の沖縄方面根拠地隊)と、他の軍の航空部隊(台湾と九州から)などが支援する仕組みになっていました。

 次が、それぞれの部隊ですが、中隊以下はその名称を省略してあります。また、所在地も確認できたものだけ記述してあり、所在地の名称は当時のものです。沖縄で現地徴集された現地徴集兵や防衛隊員、学徒隊、義勇隊、学徒看護婦などは、次の内のどれかの部隊に割り振りされて戦闘に参加したことになります。ただ、戦闘の中で、部隊が解散すると、別の部隊へ組み込まれたりしている場合もたくさんありました。なお、部隊の簡単な説明が末尾にありますので、参考にしてください。

◇三二軍指揮下の部隊
※(球)などはそれぞれの部隊の別称を表す。

◎沖縄本島
〇第三二軍直属

◇司令部(球部隊)(司令官牛島満中将・参謀長長勇中将)…首里

▲独立混成第四四旅団(球部隊)
△司令部(約六〇名)…本島南部
△第二歩兵隊(国頭支隊)…本部半島、大里
△独立混成第十五連隊…
△独立混成第四四旅団砲兵隊…
△独立混成第四四旅団工兵隊…
△独立速射砲第三大隊…豊見城、
・大隊は大隊本部、中隊2、段列からなる。大隊人員353名。
・大隊本部は乗用車2、自動貨車12を装備。本部人員47名。
・中隊は一式機動四十七粍砲6門、乗用車2、自動貨車9を装備、3小隊に区分、中隊人員125名。
・大隊段列は乗用車1、自動貨車8、軽修理自動車1を装備。段列人員56名。(速射砲 大隊、装備人員以下同じ)
△独立速射砲第七大隊…北谷
△独立速射砲第二二大隊…東風平、
△戦車第二七連隊…宜野湾、南風原、
△独立機関銃隊…
・大隊本部、機関銃第三、第十四、第十七、第十八、第十九大隊よりなる。
・独立機関銃大隊の各大隊は、中隊3からなる。
・大隊人員334名。
・中隊は、4小隊、小隊は2分隊、重機閏銃8を装備。中隊人員108名。(機関銃大隊、装備人員以下同じ)
△独立機関銃第三大隊…北谷
△独立機関銃第一四大隊…浦添、
△独立機関銃第一四大隊…
△独立機関銃第一七大隊…
△独立工兵第二大隊…
・大隊は、大隊本部、中隊3、器材小隊1からなる。大隊総員894名、馬匹134頭。
・大隊本部人員95名、馬匹41頭。
・中隊は人員254名、馬匹27頭、小隊4、器材分隊1に区分。
・器材小隊は人員37名、馬匹12頭。
・大隊の主要装備九三式電気点火器6、一〇〇式火焔発射器12、九八式投擲機8、測量器材、木工器材、鉄工器材。(工兵大隊、装備人員以下同じ)。
△独立工兵第三大隊…
△独立工兵第四大隊…
△独立工兵第二六大隊…
△独立工兵第二七大隊…
△独立工兵第二八大隊…
△独立工兵第二九大隊…
△独立工兵第三〇大隊…
△独立工兵第六六大隊…
△第五砲兵司令部…首里
△野戦重砲兵第一連隊…東風平(連隊本部、第二大隊本部、同第四・五・六中隊)、西原、
・連隊は、連隊本部、大隊2からなる。
・連隊本部人員約100名。
・大隊の人員606名。九六式十五糎榴弾砲12門、九〇軽(重)観測車(31)、八九 式六屯牽引車6、九四式自動貨車7、小銃二七〇を装備。
・中隊は十五糎榴弾砲四門。
△野戦重砲兵第二三連隊…南風原、摩文仁、東風平(第五中隊)、豊見城、
・連隊は、連隊本部、大隊2からなる。
・連隊本部 人員約100名。
・大隊は、大隊本部(約100名)、中隊3からなる。
・中隊は九六式十五糎榴弾砲4門、六屯牽引車4、自動貨車34両、人員約20名。
△独立重砲兵第百大隊…東風平村(第一中隊)、豊見城村、
・大隊は、大隊本部、中隊2、大隊段列1からなる。大隊人員499名。
・大隊本部人員105名、自動貨車1、拳銃14。
・中隊は人員158名、八九式十五糎加農砲4門、重機関銃1、小銃20、拳銃2、八屯牽引車8、自動貨車2。
・大隊段列は人員78名、小銃14、拳銃2、自動貨車5、三屯被牽引車5。
△独立臼砲第一連隊…浦添、豊見城、
・連隊は、連隊本部、中隊3、材料廠1からなる、
・連隊本部人員40名、重機開銃1。
・第一、第四、第五中隊はそれぞれ人員110名。九八式臼砲8門、九糎迫撃砲2門、重機関銃1を装備。
・材料蔽は人員43名、自動貨車5、弾薬720発、重機閏銃1、軽機関銃1。
・沖縄作戦中、初年兵約300名、防衛召集兵約400名が増加。
△迫撃第四二大隊…
△迫撃第四三大隊…
△重砲兵第七連隊…
・連隊は、人員430名、馬匹3頭。
・連隊は、連隊本部、中隊3からなる。加式十二糎速射加農砲2門、三八式野砲12門、 三年式機関銃12装備。
△独立迫撃砲第三中隊…
△独立迫撃砲第四中隊…
△独立迫撃砲第五中隊…中城、
△独立迫撃砲第六中隊…中城、
△独立迫撃砲第七中隊…兼城、
△独立迫撃砲第八中隊…
△独立迫撃砲第九中隊…
△独立迫撃砲第十中隊…
△独立測地第一中隊…
△第二一野戦高射砲隊司令部…北谷
△野戦高射砲第七九大隊…北谷、佐敷、
・大隊本部(98名)、中隊3からなる。大隊人員521名。
・大隊本部は小銃14、拳銃9、牽引自動貸車6、自動貨車6。
・中隊は人員144名、指揮班、戦砲隊2に区分、八八式七糎戦戦高射砲6門(大隊計18門)、拳銃14。(高射砲大隊、装備人員以下同じ)。
△野戦高射砲第八〇大隊…北谷
△野戦高射砲第八一大隊…北谷
△独立高射砲第二十七大隊…北谷(第三中隊)
△機関砲第一〇三大隊…
△機関砲第一〇四大隊…
△機関砲第一〇五大隊…東風平、
△第三遊撃隊…久志、羽地、
△第四遊撃隊…恩納、越来、読谷山、石川、
△電信第三六連隊…真和志、
△第三二軍野戦貨物厰…嘉手納、
△第三二軍野戦兵器廠…美里、
△第二野戦築城隊…
△第五〇三特設警備工兵隊…石川、読谷山、
△第五〇四特設警備工兵隊…北谷、中飛行場、羽地、島尻(一部)
△四九兵站地区隊本部…嘉手納、勝連、
△独立自動車第二一五中隊…
△独立自動車第二五九中隊…
△陸上勤務七二中隊…
△陸上勤務八三中隊…
△二七防疫給水部隊…
△沖縄陸軍病院…那覇→南風原
△特設警備第二二三中隊…
△特設警備第二二四中隊…嘉手納→石川→北谷
△特設警備第二二五中隊…名護、
△特設水上勤務第四三中隊…
△第一九航空地区司令部→特設第一連隊…読谷山→石川岳
△第四四飛行場大隊…石川岳、北谷
△第五〇飛行場大隊…伊江島飛行場(大隊主力)、中飛行場(大隊一部)
△第五六飛行場大隊…読谷山、北飛行場、
△独立第三飛行場大隊…南飛行場(主力)、西原飛行場(一部)
△第五野戦航空修理廠…読谷山、北飛行場、
△第二九野戦飛行場設置隊…
△第三二軍航空情報隊…首里、本部、東風平(八重瀬岳警戒隊)
△要塞建築勤務第六中隊…読谷山、南飛行場(一部)、西原飛行場(一部)、伊江島(主力)、中飛行場(一部)
△要塞建築勤務第七中隊…
△第三二軍兵器勤務隊…

(暁部隊)
△第五海上挺進基地隊本部…北谷
△海上挺進基地第一大隊…
・大隊本部、勤務中隊3、整備中隊1からなる。大隊人員 900名。
・沖縄本島地区の海上挺進基地大隊は、昭和20年2月中旬、臨時に歩兵大隊に準じて改編して地上戦に参加した。
△海上挺進基地第二大隊…
△海上挺進基地第三大隊…真壁(第二中隊)
△海上挺進基地第二六大隊…東風平(同整備隊)
△海上挺進基地第二七大隊…大里、佐敷、
△海上挺進基地第二八大隊…
△海上挺進基地第二九大隊…北谷、東風平
△海上挺進基地第三〇大隊…
△(球)海上挺身第四戦隊…
△(球)海上挺身第二六戦隊…真壁名城(第二中隊)、
△(球)海上挺身第二七戦隊…与那原
△(球)海上挺身第二八戦隊…玉城
△(球)海上挺身第二九戦隊…北谷

◇第二四師団(山部隊)…本島南部

△司令部(212名)…北谷→真壁、
△歩兵第二二連隊…中城(第一大隊)、小禄()
・連隊本部、歩兵大隊3、歩兵砲中隊、速射砲中隊1、通信中隊1によって編成。
・歩兵大隊(799名)は、大隊本部、歩兵中隊3、機関銃中隊1、歩兵砲小隊1によって編成。
・歩兵中隊(179名)は、軽機関銃9、重擲弾筒9、小銃141。
・機関銃中隊(137名)は、2個小隊、各小隊は、重機関銃4を装備。
・歩兵砲小隊(70名)は、九二式歩兵砲2門を装備。
・歩兵砲中隊(156名)は、四一式山砲4門。 
・速射砲中隊(106名)は、九四式三十七粍砲4門。
・通信中隊(144名)(連隊以下同じ)。
△歩兵第三二連隊…喜屋武(第二大隊第六・七中隊・同医務室・同本部)、摩文仁村(第 二大隊第五中隊)
△歩兵第八九連隊…真壁、摩文仁(第二中隊)、東風平(連隊本部・第一・二・三大隊)
△第二四師団通信隊…
△第二四師団兵器勤務隊…
△第二四師団制毒隊…真壁、東風平
△第二四師団病馬廠…
・連隊本部、工兵中隊3、器材小隊1からなる。
△捜索第二四連隊…真壁、
・連隊本部(449名)、中隊(179名)2からなる。
・中隊は3個小隊、小隊は4個分隊、第一から第三分隊までは、軽機関銃1、小銃10、 第四分隊は、重擲弾筒3、小銃8。
△野砲兵第四二連隊 …真壁(第一大隊第二中隊)、東風平(第四大隊本部、同段列、同 第一〇・一一・一二中隊、)、
△輜重兵第二四連隊…東風平(本部)
・連隊本部、輓馬中隊2、自動車中隊3からなる。
・輓馬中隊は人員286名、乗馬55、輓馬181。
・自動車中隊は人員120名、自動車40両。
△工兵第二四連隊…
△第一野戦病院…東風平(本部、分院)
△第二野戦病院…東風平(第二本部)、
△第二四師団衛生兵看護教育隊…東風平(同東風平校)
△第二四師団防疫給水部…喜屋武、東風平(本部、第一中隊)

◇第六二師団(石部隊)(首里北方・浦添方面)
△司令部…浦添

▲(石)歩兵第六三旅団…
△独立歩兵第一一大隊…西原、中城(第四・五中隊)、東風平、西原(本部、第一・二・ 三中隊、機関銃中隊)、
・大隊本部(57名)、歩兵中隊5、機関銃中隊1、歩兵砲中隊1からなる。
・歩兵中隊(189名)は、3個小隊、中隊は機関銃9、重擲弾筒9を装備。
・機関銃中隊(129名)は、4個小隊。中隊は重機関銃8を装備。
・歩兵砲中隊(102名)は九二式歩兵砲2門、四一式山砲2門を装備。
 ※作戦中は、速射砲、迫撃砲なども使用された。(歩兵大隊以下同じ)。
△独立歩兵第一二大隊…具志川(第五中隊)、石川(第二中隊)、越来(第三中隊)、中城 (主力・第一中隊・経理部)、東風平、西原、
△独立歩兵第一三大隊…浦添、宜野湾(第三・五中隊)
△第一四大隊…中城(第一中隊)、

▲(石)第六四旅団…
△司令部…浦添、
△独立歩兵第一五大隊…浦添、真壁、
△独立歩兵第二一大隊…浦添、真壁、東風平、
△独立歩兵第二二大隊…首里、真壁
△独立歩兵第二三大隊…那覇、浦添、
△第六二師団工兵隊…西原、
△第六二師団通信隊…
△第六二師団輜重隊…北谷、
・隊本部(23名)、駄馬中隊1(133名)、自動車中隊2(186名)からなる。
・作戦中は輓馬中隊一を臨時に編成。
・自動車は三六両。迫撃砲六、軽機関銃一八、重機関銃一、擲弾筒一を装備。
△(石)第六二師団病馬厰…東風平、
△(石)第六二師団野戦病院…
△(石)第六十二師団輜重隊…首里、浦添、

◎津堅島
 (球)△独立混成四四旅団重砲兵第七連隊第一中隊
 (球)△独立混成四四旅団第十五連隊第一中隊第三小隊

◎渡嘉敷島・阿波連島
△(球)海上挺身第三戦隊
△(球)特設水上勤務第一〇四中隊の1個小隊

◎座間味島
△(球)海上挺身第一戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

◎阿嘉島・慶留間島
△(球)海上挺身第二戦隊、△(球)特設水上勤務第一〇四中隊

◎伊計島
△分隊

◎久米島
△沖縄方面根拠地隊直属電波探知機部隊

◎伊江島
△(球)独立混成第四四旅団第二歩兵隊第一大隊、△(球)独立速射砲第〇〇大隊第〇〇中隊、△(球)独立機関銃第〇〇大隊第〇〇中隊、△(球)第五〇飛行場大隊主力、△(球)第五〇二特設警備工兵隊、△(球)独立整備隊

〇船舶部隊
△第一一船舶団司令部…
△第七船舶輸送司令部沖縄支部…
△船舶工兵第二三連隊…佐敷村、
△船舶工兵第二六連隊…

〇海軍部隊(佐世保鎮守府長官→第三二軍司令官)

◇沖縄方面根拠地隊司令官
△沖縄方面根拠地隊…小禄村→豊見城村
△第二七魚雷艇隊…今帰仁村運天港、
△第三七魚雷調整班…小禄村、
△第二二震洋隊…金武村
△第四二震洋隊…金武村
△電波探知機部隊…久米島
△第二蛟龍隊…今帰仁村運天港
△第三三蛟龍隊…
△第二二六・三二一〇設営隊…小禄村
△小禄通信隊…小禄村

〇連合艦隊司令長官→◇第五航空艦隊司令長官→◇沖縄根拠地隊司令官(45/4/1以降)
△南西諸島海軍航空隊…小禄村
△第七〇一航空隊沖縄派遣隊…
△第九三一航空隊沖縄派遣隊…
△第九五一航空隊沖縄派遣隊…小禄村

△佐世保軍需部那覇派遣隊…那覇市
△佐世保運輸部那覇派遣隊…那覇市
△佐世保工廠部那覇派遣隊…那覇市

◎宮古諸島

◇第二八師団(豊部隊)(宮古島)
△司令部、△歩兵第三連隊、第三〇連隊、△騎兵第二八連隊、△山砲第二八連隊、△工兵第二八連隊、△第二八師団通信隊、△第二八師団防疫給水部、△第二八師団第一野戦病 院、△第二野戦病院、△第四野戦病院、△第二八師団制毒訓練所、△第二八師団兵器修 理所、△第二八師団病馬収療所、△輜重兵第二八連隊、△独立速射砲第二五中隊、△独立速射砲同第二六中隊

◇独立混成第六〇旅団(駒部隊)(宮古島)
△司令部、△独立歩兵第三九七大隊、△独立歩兵第三九八大隊、△独立歩兵第三九九大隊、△独立歩兵第四〇〇大隊、△独立混成第六〇旅団砲兵隊、△独立混成第六〇旅団工兵隊、△独立混成第六〇旅団通信隊

◇独立混成第五九旅団(碧部隊)(伊良部島→宮古島)
△司令部、△独立歩兵第三九三大隊、△独立歩兵第三九四大隊、△独立歩兵第三九五大隊、△独立歩兵第三九六大隊、△独立混成第五九旅団砲兵隊、△独立混成第五九旅団工兵隊、△独立混成第五九旅団通信隊、

◇第三二軍直属(球部隊)
△独立速射砲第五大隊、△独立機関銃第一八大隊、△特設第四七機関砲隊、△第二〇五飛行場大隊、△要塞建築勤務第八中隊
〇海軍部隊
△宮古島警備隊…宮古島
・警備隊、南西諸島空派遣隊、第三一三設営隊、第四一震洋隊

◎八重山諸島

◇独立混成第四五旅団(球部隊)(石垣島)
△司令部、△独立歩兵第二七一大隊
・大隊は、大隊本部、中隊3、機関銃中隊1、歩兵砲小隊1、作業小隊1からなる。
・中隊は、軽機関銃9、重擲弾筒9、人員170名。
・機関銃中隊は重機関銃4、人員約75名。
・歩兵砲小隊は、大隊砲または三十七糎砲2門、人員約75名。
・作業小隊(約40名)(歩兵大隊、装備人員以下同じ)。
△独立歩兵第二七二大隊、独立歩兵第二七三大隊、独立歩兵第二九八大隊、独立歩兵第二九九大隊、独立歩兵第三〇〇大隊、独立歩兵第三〇一大隊
△独立混成第四五旅団工兵隊、△重砲兵第八連隊、△独立機関銃第一九大隊、△特設第四八機関砲隊、△第二八師団第三野戦病院、△特設警備第二〇九中隊、△特設警備第二一〇中隊

〇海軍部隊
△石垣島警備隊
△警備隊、沖根派遣隊、南西諸島空派遣隊、第三二設営隊、高角砲(12)、機銃(48)、探照灯(4)、水平砲台(10)、震洋隊(2)

◎奄美諸島

◇独立混成第六四旅団(球部隊)(徳之島)
△司令部、△独立混成第二一連隊、△独立混成第二二連隊、△重砲兵第六連隊、△独立速射砲第一八中隊、△独立速射砲第二二中隊、△独立速射砲第二三中隊、△電信第三六連隊(一部)、△特設警備第二一一中隊

〇海軍部隊
△大島防備隊
・設営隊、平射砲(8)、高射砲()、機関砲(7)、照空隊(2)、迫撃砲隊(1)、震洋隊(5) 船艇(3)

◎大東諸島
◇(球)大東島支隊、◇(球)第二八師団歩兵第三六連隊、◇(大本営直轄)大城部隊

〇海軍部隊
△南大東部隊
・飛行場設営隊、高角砲(12)、平射砲台()、機銃(73)

△第一航空艦隊、△第三航空艦隊、△第五航空艦隊、△第十航空艦隊

△第二艦隊、△第六艦隊                    (参照「三二軍主要部隊」)

[部隊解説]
◇師団の編成…歩兵隊を基本に説明します。
1しくみ
(1)軍…戦争の時に師団や旅団などをまとめて作られます。三二軍は、沖縄戦のためにつくられた戦闘用部隊です。
(2)師団…いくつかの旅団や連隊をまとめた総合的な部隊です。兵員は、約1万2千人です。三二軍は4つの師団でスタートしましたが、1個師団は直後台湾に移されました。
(3)旅団(りょだん)…師団よりも小さな総合部隊です。編制は、司令部の他に2個の歩兵連隊やその他の連隊を持ちます。人員は約7千〜8千人です。三二軍には7個旅団が組み込まれていました。
(4)聯隊(連隊・れんたい)…旅団よりも小さい部隊です。編制は、連隊本部の他、大隊3個、通信中隊、歩兵砲中隊、速射砲中隊からなります。
※聯隊は有名な軍旗を持つ部隊で、歩兵聯隊と騎兵聨隊にだけ与えられるものです、天皇から与えられたもので、証言に「聨隊旗を守って…」というのがよくでてきます。
(5)大隊(だいたい)…聯隊よりも小さい部隊です。編制は、大隊本部の他、中隊4個(後に3個)、機関銃中隊、歩兵砲小隊からなります。人員は約1,200人です。
(6)中隊…大隊よりも小さい部隊です。編制は、指揮班の他、小隊4個、弾薬小隊からなります。人員は約300人です。
(7)小隊…中隊よりも小さい部隊です。編制は分隊4個からなります。人員は5、60人です。
(8)分隊…小隊よりも小さい部隊です。基本的には最小単位ですが、特殊な場合は班を作る分隊もあります。分隊は基本的に12名からなります。

2主な兵隊の種類
(1)歩兵…兵隊が小火器(小銃など)を持って戦闘する。
(2)捜索…戦車や装甲車、トラックなどを使って機動力を生かして戦闘を支援します。斥候(せっこう=偵察)、捜索、追撃などがあります。
(3)砲兵…大砲を装備して砲撃により戦闘を支援します。主に平野で使う野砲を装備した野砲兵と、山などで使う山砲を装備した山砲兵がいます。
(4)工兵…陣地を造ったり、橋を架けたり、逆に壊したりなどがその任務です。
(5)輜重兵(しちょうへい)…弾薬や食料などを運ぶことが任務です。
(6)師団直轄…師団が作戦や戦闘に必要な支援を行う諸部隊のことです。戦傷者、戦病者の治療や搬送(はんそう)に当たる衛生隊、師団に随行してそれらの患者を収容する野戦病院、毒ガスなどを防ぐ制毒隊、真水の供給や病気の蔓延(まんえん)を防ぐ防疫(ぼうえき)給水部、馬の病院である病馬廠(しょう)、通信業務に当たる通信隊、兵器管理や修繕、整備を行う兵器勤務隊などがあります。

[26−日本軍−2] 日本兵はどのようにして食糧を手にいれたのですか。
 
   牛島司令官が沖縄に到着した時、「すべての準備を現地で行う」ことを命令しています。つまり、足りない兵隊は沖縄の住民から、足りない物も沖縄から集める、という意味です。それは、沖縄の近海にはアメ リカ軍の潜水艦が出没していたこと、また、日本全体の物資が不足していたことと関係しています。

   三二軍は、食糧を含めて物資を手に入れるために「供出」ということをしました。材木、竹、茅、米、麦、芋、野菜、金属類など軍隊で使う物を各市町村を通して命令し、区長が各字の家々に割り当てて「供出」させました。食糧の場合も同じ方法でした。

    食糧の米に関しては、軍はある程度もっていました(1944年7月、米を主として約8カ月分の食糧の備蓄)。しかし、沖縄戦は初めから持久戦という方針でしたから、米は備蓄しておき、住民から供出させた芋を主体とした食事を兵隊に与え、節約をしていました。そのために、お腹を空かした兵隊が民家に食べ物を求めて入り込むことも多かったという証言がたくさんあります。

    貧しい沖縄の人々は、自分の食べる分を削ってでも、日本軍に協力していました。個人的には、家に入り込んでくる日本兵に食事を与える人もたくさんいました。それでも食糧などがない時には、区長がその地域に駐屯している部隊長に「供出」の免除をお願いしました。しかし、「住民は食わなくても、兵隊が食うものは準備すべきだ」といって叱られたという証言もあります。

    また、戦闘が始まると、一方的に押しまくられていた日本軍ですから、備蓄した食糧などもあちこちで放置して南部へ退却していきました。そのために、食糧の確保の手段を失った日本兵は、その場その場で住民から、食糧を強制的に供出させたり、強奪したりしています。

[証言から]
〇北中城村の場合
 それから供出ですね、ああいう問題が、非常に各住民に強化されました。供出はおもに芋ですな。それから味噌などもです。上陸に近ずくにつれて、里芋、うちの部落では、鶏なんかも出したことがありましたが、兵隊の幹部が食べるんじやなかったでしようかな。あとになっては、芋かずら、芋の葉も出した場合がありました。集めるのは部落ごとに。後になってからは直接兵隊に納めていたが、最初は集積所があって、そこに供出を各部落ごとにしておったんです。これは役所を通じて。

〇北中城村安谷屋の場合(区長)
 それから供出のことですが、これも大変でした。食糧のすべてのもの、芋や野菜などの食物は一切合切、あとでは、芋のつるまで供出させられました。何班は何がいくらと、組長さんが集めて来ると、軍から集荷所に取りに来て、秤でかけて取るというふうに受け取らしていました。
 代金は、豚でも、竹でも、茅の供出にも最初は支払っていましたが、公定相場ですから、住民のがわでは、代価は問題ではなくて、仕方ないから、義務、命令で、いやというわけにいかないからやるのですね。おまけに軍の方からは、だんだん供出の命令が多くなるんですが、住民の方では、徴用、勤労奉仕などに絶えず引っ張り出されていますので、ほとんど農作物の生産に励む時日はなかったので、民間では、そういうわけで、物が少くて出すにも出せないという立場にあったんです。
 自分たちも食べねばならないので、20斤の芋の供出が割り当てられると、15斤にしてくれというんですね。それで区長は、班長といっしょになって、無いものも無理して出さしめるようにするわけです。それで、軍からの通達通りに供出できないと、兵隊は、区長に当ります。戦争が始まるかなり前からの代金は、払われませんで、全然受け取りませんでした。

〇沖縄市泡瀬の場合
 父は網元で、当時泡瀬漁業組合長もしておりました。最初のうちは、北中城村の仲順、喜舎場方面に部隊がおかれていました。その部隊が泡瀬に、食糧の供出を強制的に割当ててきました。ここには魚の供出が割当てられましたが、住民の間には、相当の批判がありました。というのは魚が獲れるのは、天気が良い時だけで、ちょっとでも天気がぐずつき、風でも出たら、海はすぐに時化てさかながとれません。また泡瀬では、その殆んどが、くり舟の漁ですから、なおさら大変でした。
 ところが、中山という部隊長は、サイドカー付きオートバイに乗ってきては、漁業組合長の父にむかって「海が荒れていても、さかなはいるから取ってこい。1日の供出量は決められている。それには絶対服従だ。住民は食わんでもいいんだ。兵隊が食わなかったらどうなるんだ」ということをいつも云っていた。だから私の父は、オートバイがやってく
るといつも顔色を変えてビクビクしたものでした。
時化るとさかな自体、本当にとれないので、供出が遅れると、父に対してその部隊長は、私の目の前で、日本刀を抜いて、首筋につきつけたり、刀をシャツの袖口につっこんだりして「さかなをとってこい。とりにいくかいかんか」と脅迫したので、大変こわかった。

〇沖縄市山内の場合(自治会長・区長)
    この山内部落には、昭和187年に初めて友軍が配置されてきました。それは「ハザマ隊」といって100以上の兵隊で編成されており、なにしろ初めての部隊ですから、村あげて大歓待しました。村では各戸割当てで農作物の供出をしているのに、部隊独自で部落から資材などを強要した揚句、全くその代金を支払わないということもありました。

    空襲が相次いで来るようになると当然農作業がこれまでのようには続けられなくなって、自分達の食べる分だけでも確保するのが難かしくなってきても、農作物の供出を強引に迫って住民は非常に難儀しました。

 空襲が続いてくる時にも区長を脅かして供出を迫るので、空襲のあい間にとり入れた農作物を供出しても、さらにその夜にも供出のために畑に出なければならないという程、友軍の態度は大変なものでした。その点は、「ハザマ部隊」が去って、「武田隊」が配置されてきましたが、彼等は、割当て以外に供出する分に対しては、その分の代金を私に支払っていました。勿論、それも私が部隊にかけあって、前みたいにただで取られないようにかけ合ったから代金を払ったはずです。
 山内部落では、ほとんどの家が、牛、馬、豚、山羊、ニワトリなどを飼っており、空襲の時にも避難壕にかくれながら、夜間に農作業をする傍ら、それら家畜類の飼料捜しもしなければならず、大変な苦労をしながらそれらも飼っていたわけです。友軍は、そのような家畜類の供出や資材の供出を無理にさせて代金も払わなかったが、私が区長になってからは、部隊もかわったのでそれらの代金は全部受取りました。

〇知念村の場合(区長談話)
 「鶏卵、豚、牛までもです。」「軍からもらったのはごくわずかですよ。供出は命令的ですよ」「牛籍、豚籍があって、軍から廻って見よったですよ」「私達の食べる芋も供出しました。」「ハイ、野菜として芋の葉を出したら、それだけでは食べられないから、アブラ(豚脂)も出すように言われました」「供出は命令が強制的でした。」「魚の供出もありました。」

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