戦争の原因
ここでは、なぜ戦争が起こり、沖縄戦になったのかについて回答しています。

45−戦争の原因−1] どうして戦争をおこしたのですか。

 とても難しい質問ですが、最も大切な質問の一つでもありますね。あんな悲惨な戦争のことを知ると、「どうしてこんな戦争を起こすのだろうか」という疑問は誰にも湧いてくるさでしょう。

    「沖縄戦」は、「太平洋戦争」と呼ばれる戦争の中の最終の場面にあたります。ですから、この戦争の始まりは、「太平洋戦争」ということになります。「沖縄戦」は、1945年3月23日の空襲から始まり、3月26日に、アメリカ軍が慶良間諸島に上陸、4月1日の本島上陸と続きますが、一年前の1944年10月10日の5回にわたる空襲も大規模でした。

    ところで、「太平洋戦争」は、1941年12月8日の「真珠湾攻撃」が始まり(実際はマレー半島攻撃が時間的には早かった)で、太平洋の島々を次々と占領していき、アメ リカ軍を主力とした連合軍の反撃に合い、沖縄戦、広島・長崎の原爆投下により、1945年8月15日に敗戦となりました。

 ところが、それより十年前の1931年(昭和6)、日本軍は「太平洋戦争」の元となった「日中戦争」を起こしています。

    なぜ戦争が起こるのかという戦争の原因には、いろいろなことが絡まっています。日本が起こした「太平洋戦争」の始まりは、「日中戦争」に逆上り、「日中戦争」は、その前の「第一次世界大戦」や「日露戦争」や「日清戦争」とも関係があります。

 このように歴史はつながっているのですが、お話をわかりやすくするために、ここでは、「日中戦争」からお話します。

 当時、アジアの各地や太平洋地域は、アメ リカやイギリスやフランス等が協力な経済力によって植民地や租界地(そかいち、その国の主権が及ばない外国人の居住地域のこと)としていました。

    そんな時、日本も経済力が強くなってきていましたから、隣のアジアの国々に影響力を持って、経済力をより一層伸ばそうとしていました。すでに「日清戦争」や「日露戦争」、「第一次世界大戦」などの勝利で台湾や樺太を領土とし、さらに朝鮮を植民地に、中国東北部を支配地域にしていましたので、それを足掛かりにして、中国全土に侵出しようとしていました。

 経済力や政治力が弱くなっていた中国の弱みに付け込み、日本は中国への侵攻を始めました。そのきっかけは、「柳条湖事件」で、日本が管理していた満州鉄道の線路を爆破して、「中国が爆破した」という口実を作り、「満州事変」を起こし、近隣の都市部を次々に占領していきました。これが1931年(昭和6)9月のことで、「日中戦争」の始まりです。

 その翌年後、日本の思い通りになる「満州国」を作り、中国侵略の拠点にし、中国沿岸部を南下していく中国侵略を進め、その間に、「南京大虐殺」や「三光作戦」「七三一部隊による毒ガス作戦」などを行っていきました。

 これに対してアメ リカやイギリスやフランスは、日本の強引な中国侵略に対して非難しました。日本の力を押さえるために、調査団を送ったり、条約を取り決めたり、経済的な圧力も加えてきました。そこで1933年(昭和8)、日本は国際連盟を脱退しました。

  一方、日本政府は国民に対して、「日本は神である天皇が支配してきた神の国である。国民は天皇の子どもであるから、天皇のために死ぬのは当然である。」という考え方を徹底的に教え込みました(皇民化教育)。 そして、アメ リカ等の非難に対して、「アジアは遅れているから、日本が指導していく」という考え方を広げて行きました。その方法として、朝鮮や台湾では、例えば日本語を押しつけ、その国の言葉を禁止するなど、日本化の政策を押しつけました。

    中国の占領した地域でも同じことを押し進め、将来はアジア全体を日本の支配下におく考えでした(この考えを「大東亜共栄圏」といい、世界を一つにして日本が支配するという「八紘一宇(ハッコウイチウ)」の政策につながっています)。
 日本の侵略に対して、中国では、中国共産党と国民党が協力して日本に抵抗していました。日本はだんだん窮地に追い込まれながら、さらにインドシナ半島(今のベトナムやラオス、シンガポールなど)に戦渦を広げていきました。

 国際的には、日本はかなり孤立した状態の中で、1941年(昭和16)12月8日、アメ リカのハワイの「真珠湾」を攻撃して「太平洋戦争」を起こしました。

    当時の日本は、憲法で「天皇主権国家」と定められていたので、国の計画も実行もすべて天皇の命令(勅命といいます)というのが最後の決定でした。「太平洋戦争」の開始でも、外務省は、アメ リカとの話し合いでなんとか避けようとしていました。しかし、軍部(特に陸軍)は戦争遂行を主張していました。そのような中で最後の決定(「御前会議」)をしたのが、昭和天皇でした。(参照「宣戦布告(口語訳付き)」

    一方国民は、天皇の治める臣民(主君に命を預ける家来という意味)として教え込まれ、人間としての権利(基本的人権)は「絵に描いたモチ」でしかありませんでした。民主主義や基本的人権の考えの立場からものを言ったり、行動したりすると、政府はそんな人は「アカ」(危険思想)といって徹底的に弾圧し、国民を脅していました。

    以上、日本が戦争へと突き進んでいった大まかな流れをふまえて、「日中戦争」や「太平洋戦争」の原因を考えると、次の一つ一つのことが重なって起こったと言えます。

1 政府が政治や経済を進める時、外国との徹底的な話し合いをするのでなく、武力に訴えたこと。
 明治以来、日本政府の中心であった「富国強兵」政策の実現が第一の力の入れ所だったのですから、当然と言えば当然といえるでしょう。 

2 天皇を国の絶対最高権力者として憲法に定め(「大日本帝国憲法」)、国の政治ばかりでなくすべての分野にその権力を利用したこと。

    とかく「天皇(昭和天皇のこと)は利用された」とか「軍部の力には天皇も反対できなかった」という考え方がありますが、それは天皇を実際よりも低く評価していて、正しい歴史の見方とはいえません。天皇にはそれほど力がなかったわけではありません。

 天皇は、憲法上で絶対権力を保障されているばかりでなく、天皇個人としても幼少の頃から軍人として育てられたことによって、かなりの軍事戦略には長(た)けていました。その証拠に、軍部の作戦等に対しても口を挟んでいますし、自らも戦況の分析をしたり作戦も提起しています。また、軍部の先走りに対しても、その時々の状況に応じて、評価したり叱ったりしています。側近に対する叱咤激励はかなり厳しいものがあります。(参照「大日本帝国憲法」)(参照「昭和天皇」)

 要するに、天皇自身が軍人であり、その権力と軍部の両方が互いに補って戦争への道を選択していった、ということに注目すべきです。

3 国際関係では、外国(外国人)と対等の関係で協力していくという考えが弱かったこと。特に欧米諸国に対しては「卑屈(ひくつ)」になり、アジア諸国に対しては「優越」感を持って国際政治を進めたこと。

 現在でも尾を引いているこの日本人の意識は、江戸時代にさかのぼります。鎖国から解放された日本にとって、産業革命後の進んだヨーロッパ諸国の経済力や軍事力は驚異でした。それらに圧倒された明治時代の指導者たちは、ひたすらそれらの国のモノや考え方を取り入れていきました。そのことが、その後の日本人の意識に大きく影響していったことは否定できません。

 「文化は高い所から低い所へ流れる」のたとえ通り、ヨーロッパ諸国の文化が日本に流れ込んできました。日本人は、「二者択一」の考えが強く、他国の文化の取り入れが、自らの文化を否定することにつながりました。その発想だと、自分よりもおくれ者に対しては否定する考えが生れてくるのは当然の結果でした。

 そのような考えの中では、どちらが優れているか劣っているか、どちらが進んでいるのか遅れているかの比較だけが強調されて、対等の関係は生れてこないのです。

4 国内では、日本人は優れているという考えを広げたこと。その考えが極端な愛国心となって、アジア諸国民を差別する考えに広がっていったこと。

 これは、3項の後半と関連して進められました。つまり、アジア諸国に侵攻するためにはアジア諸国が日本より遅れている国であることを日本人に植えつけなければなりません。そこで取り入れられたのが日本の精神文化でした。

 目に見えない心の世界で、日本は「神の治める神の国」という教育は、目に見えるヨーロッパ諸国の文化よりも価値があるのだ、という新たなかたよった価値観を国民にうえつけることになりました。つまり、精神主義による国民の教育でした。

 結果的には、アジア諸国民に対してそれを押しつけたばかりでなく、国民自体も、この精神主義によってどれだけの犠牲を受けたかわかりません。戦後、昭和天皇自体が、「わが国はあまりにも精神主義に走った」と反省しているほどですから…。

5 国民が、一人の人間としてどう生きるのか、というしっかりした考えを持たされなかったこと。

    学校教育を中心として、日本国民は、人間としての教育よりも天皇のために働く「臣民」として教育されました。また学校だけでなく、卒業すると、上級学校に行かない人はすべて青年学校に組み込まれて、天皇に奉公する様々な技術や精神の鍛練を義務づけられました。

 さらに、人間は生まれながらにして「基本的人権」を持っているという考え方が国民全般に広がりませんでした。それは、政府がこのような考え方の広がりに対しては徹底して弾圧していったからでした。なぜなら、それは「天皇中心の国家」という考え方と対立するからです。

 したがって、民主主義の考え方などは国民の多くがもっていませんでしたし、持っている人でもそれを口に出したり、その考え方に基づいて行動することは許されませんでした。 それほど強力な政治の力が国民の自由な考え方や行動を縛っていたことになるのですが、なぜ、それほどまでになったのかは、やはり、「天皇の力」を使った教育の方法が国民に浸透していたことになります。日本の歴史の中で、「天皇の力」はそれほど強力なものとなっていたのです。             (参照「国体の大義」)

 したがって、戦争が始まると、学校教育を長く受けた人ほど戦争で天皇のために死ぬ気持ちが一般的に強く現れました。あれだけ悲惨な目に合った沖縄戦の中でも、天皇のために自分が戦っているということに疑問をもつ人はあまりいませんでした。         (参照[22-徴兵-1]関連1)

6 武力が強くなったこと。
    明治以降、政府は「富国強兵」政策を押し進める中、天皇直属の軍隊を設立し軍事予算を大幅に組んで軍事大国となっていきました。国民に対しては「国民皆兵」を押しつけ、天皇のために命を捨てる日本独特の精神主義に基づく軍人精神をうえつけ、命を駆けた特攻精神に支えられた「恐るべき軍隊」になっていったのです。

7 「日本は神の国である」という偏った考えが国民に広がったこと。
    「軍国日本」「神国日本」の教育により、「日本は神の国である」という考え方は国民全般に広がっておりました。

沖縄戦においても、あれほどアメ リカ軍の攻撃で犠牲が増えていく中でも、必ず日本軍は勝つと信じていた人はたくさんいました。それは、一種の「うぬぼれ」であり、物事を正しく見ることができなかったばかりでなく、自分以外のものはすべて劣っている、という「日本人は優秀である」という考えにつながっていました。

    したがって、日本軍に組み込まれていた朝鮮人に対しては牛馬以下の扱いしかしていないし、敵兵のアメ リカ兵に対しても、「鬼畜米英」という表現で、人間でない畜生だと下げすんでいました。

8 政治のやり方を批判する国民の力が押さえられたこと。

    戦争は政府が起こすのですが、いきなり起こすのではありません。国民の支持をえられるように政治のやり方などいろいろなことを法律で定めたりします。それに対して国民が支持するのか、反対するのか。また、反対するのが多いのか少ないのかなどによっても、政治の進め方は変わっていきます。

    「日中戦争」「太平洋戦争」においては、国民の反対が少なかったことは、戦争の責任という面から考えると、国民の間になぜあれほどまでに戦争遂行の気持ちが強かったのか、という疑問が湧いてきます。

 もちろん、戦争が始まる前から、政府のやり方に反対する政党や人たちもいました。また、戦争に突入した後もずっと反対を訴えていた人たちもいました。しかし、ほとんどの政党は戦争賛成の側に組み込まれ(反対した政党は非合法化されたり、大弾圧を受けたりした)、反対の数は国民全体からすると少ないものでした。

    政府はこのような反対の国民を無視することなく、「非国民」とか「アカ」という呼び方で徹底的に弾圧し、国民に対して見せしめとしました。多くの国民はそれに対して黙っているか、賛成するかのどちらかでした。そのために、「戦争反対」を叫んで多くの人たちが弾圧で亡くなっています。

 このことから学ぶ教訓は、国民の一人一人の力は弱いのですが、多くの国民が本当に正しいことに対してはっきりと自己表現をしていかない限り国の政治の過ちを正していける方法はないということです。ですから、「戦争は人間が起こすのだが、戦争をくい止めるのも人間である」という有名な言葉が生きています。(参照[49-平和への道-3])

46−戦争の原因−2] なぜ沖縄が戦場になったのですか。

    太平洋戦争の後半、日本軍は急速に力を失い、一方連合軍(アメ リカが中心)は態勢を整えて豊富な物量に支えられて反撃してきました。

    日本軍は、最後の防衛線として、「絶対国防圏」を決めて、その線だけは絶対守るという作戦をとりました。その作戦に必要なのは飛行機だという考えで、台湾(植民地)・沖縄・上海(占領)の三角点を結ぶ空を守るということから、沖縄に飛行場建設を進めました。

    沖縄における日本軍の基地の建設は、飛行場から始まったのです。伊江島飛行場、読谷山飛行場(北飛行場)、嘉手納飛行場(中飛行場)、牧港(仲西)飛行場(南飛行場)、西原飛行場(与那原飛行場)、小禄飛行場(那覇飛行場)、糸満飛行場(特攻滑走路)、さらに宮古に三飛行場(海軍と陸軍)、八重山にも三飛行場(海軍と陸軍)、南北大東島にも建設を進めました。

    ところが、一方のアメ リカ軍は、最終目標である日本本土を攻撃するため、飛行場基地建設を南方から徐々に近づけてきていました。アメ リカ軍はサイパン島を占領した時には、直接日本本土の空襲ができるようになりました。さらに、次の目標として、沖縄と硫黄島の占領を目標としていました。

    沖縄を占領して航空基地を建設し、短距離で日本本土を攻撃することと、硫黄島を占領し、南方につながる日本軍の輸送経路を断ち切ること、この二つが成功すれば、直接本土に上陸しなくても日本を降伏させられる、とアメ リカ軍は考えていました。

    日本軍には、「台湾におびきよせて叩く」(昭和天皇の発言)考えもあったようですが、中国大陸での戦争の拡大や、「本土決戦」などのために、そんな兵力の余裕はありませんでした。

    アメ リカ軍も当初は、台湾を占領し中国に上陸して、中国にいる日本軍を攻撃する作戦でしたが、フィ リッピンを取り返すことによって、台湾占領は意味をもたなくなると同時に日本本土に近い沖縄を攻略することができることと、台湾攻略よりも資材・人員・犠牲・時間も少なくてすむこと、台湾攻略からの本土爆撃は途中の妨害が多いなどの理由で、急きょ沖縄占領に作戦を変更しました。

    大本営はそれをキャッチし、こちらも急きょ沖縄に軍隊を派遣することになりました。その結果できたのが第三二軍で、四つの師団と二つの旅団など合わせて約12万の兵力でした。(しかし、一個師団は沖縄到着後すぐ、台湾に移動しています)

    結局、アメ リカ軍の作戦の都合によって「沖縄占領」が計画され、日本軍はそれを迎え打つという展開になったのが沖縄が戦場になった理由といえるでしょう。

関連1 なぜ、沖縄はこんな無残な目にあったのですか。

 ここでは、「なぜ、沖縄が戦場になったのか」を受けて、沖縄戦が始まった後のこととして考えてみます。つまり、なぜあれだけの住民を残酷な戦場に巻き込んでしまったのか、もっと何とか防ぐ方法はなかったのか、という前提でお答えいたします。

 沖縄戦の経過の中から、それを防ぐために何ができたのか、という仮定を設定すると、次のようになります。

 1 首里が陥落した時に「降伏」すべきだった。
 2 住民の避難で集中している喜屋武半島に司令部を移すべきでなかった。
 3 訓練なしの「防衛隊」や「学徒隊」などを戦場に動員すべきでなかった。 
 4 ガマ(壕)から住民を追い出したり、食糧を強奪すべきでなかった。
 5 住民がアメリカ軍に投降しようとした時、阻止すべきでなかった。
 6 無謀で無計画的な軍事優先の住民の疎開や避難はすべきではなかった。

    以上六点のうち、一つ一つが実行されていたら、その分だけ住民の犠牲は少なくなってていたことはまちがいありません。なぜなら、沖縄戦の住民犠牲は、上記六点を原因とするのが圧倒的に多いからです。それほど上記の六点は中心的な問題として大きな比重をもっています。

    しかし、これらの事柄は実際には逆のこととして進行していきました。しかも、それらはすべて、日本軍と関わっているものです。なぜ、それらのことが回避されることなく実行されていったのかをひも解くことによってその答えが浮かび上がってくるものと考えます。

 @一つ目は、日本軍の作戦が本土決戦のための「捨石作戦」であったことです。つまり、アメ リカ軍との力の差ははっきりと分かっていたので、弱い戦力でいかに長引かせるかが基本的な方針だったのです。

 首里の司令部がアメ リカ軍に包囲されそうになった時、日本軍はほとんど兵力を失っていました。ただでさえ、日本軍の兵力は沖縄の住民の防衛隊や学徒隊などを入れて10万やっとの兵力です。しかも武器・弾薬はわずかしかありません。防衛隊などに渡された武器は手榴弾だけです。アメ リカ軍は後続部隊を入れると50万余人です。

    首里を撤退し、司令部を摩文仁に移し、日本軍が喜屋武半島に退却した時(5月下旬)の兵力は約3万人(2万人という説もある)になっていたのです。これだけの兵力でアメ リカ軍と戦える道理がありません。ひたすら長引かせ時間稼ぎをしていたのです。

 現に牛島司令官が自決する前に、日本軍の本部(大本営といいます)では、沖縄の日本軍を見捨てていました。そんな中、牛島司令官は「最後の一人まで戦え」という最後の命令を発したのです。牛島司令官は、6月11日に発し、17日に届いたアメ リカ軍のバッグナー司令官からの降伏勧告書を無視しました。

 また、牛島司令官が三二軍の司令官として赴任する時、上官の陸軍大臣から「絶対玉砕するな!」という命令を受けています。この命令の意味するところは、アメ リカ軍との力の差を考えると、持久戦に持ち込むことである、になります。「玉砕」は一気に全滅することですから、それでは、大本営は困るのです。牛島司令官は、それを守り通して、沖縄戦の結末をうやむやにしてしまったのです。

 A二つ目は、日本軍が沖縄住民を徹底的に利用したことです。

    当初配置された第九師団が急きょ台湾に移動し、それにかわる部隊は補充されませんでした。したがって、当初の12万態勢は崩れ、部隊の配置も変更となり、その埋め合わせに沖縄住民を徹底的に利用したのです。防衛隊、義勇隊、少年団、学徒隊、補助看護婦、農兵隊、軍用務員、炊事賄いなどさまざまな組織を作って日本軍に動員させました。

    そのために軍隊の訓練をしていない住民が多数戦場に放り出されてしまったのです。国際法上でも許されない、国内法にもない、軍人でもない女性や少年を戦場に組み込むことが沖縄では行われています。

    戦場動員ばかりでなく、住民の疎開や避難についても、同じことが言えます。疎開とは安全確保が第一ですが、沖縄戦における住民の疎開には別の意味が含まれていました。

 県外疎開では、県庁や国の機関に働いていた多くの本土出身の人たちは、いち早く本土に疎開(引き揚げ)していますが、住民の疎開は学童を含めて、アメ リカ軍の潜水艦が航行している中での疎開でした。住民の疎開には条件を厳しくしたのが原因の一つでした。つまり、前述したように、戦場に動員できる者には疎開を禁止しておいて、動員出来ないものだけを疎開させるという、軍の方針が県外疎開を遅らせる結果となりました。

    海を隔てた土地での学童だけの疎開では不安と迷いをもつのも当然というものです。県外疎開が遅れた分、県内疎開(山原疎開)も遅れてしまい、結果的に10万人対象が3万人にとどまってしまいました。

 県内疎開も条件は同じく「老幼者や妊産婦、病弱者、そしてそれを保護する者」という条件でした。しかも、疎開の目的が、住民の安全確保ではなく、戦闘の邪魔者の排除と軍の食糧確保のためにあったことです。

 三二軍の長参謀が県に疎開の計画を作成するよう求めた時、四か月の食糧の確保を言っているが、供出ですべてを出し尽くしてしまった県民のどこに食糧があるというのでしょうか。しかも、軍の食糧は出すわけにはいかない、と明言しているのです。それでも、県は軍に対して何らの要求もしないまま、知事自身「食糧には不安もあるが」という無謀な山原疎開を市町村に指示しています。このような疎開では、県外、県内どちらも悲惨な結果を招いてしまうのは当然のことでした。

 B三つ目は、沖縄住民を軍に協力させたため軍隊と住民が近くなり、日本軍の秘密をアメ リカ軍にスパイするのではないかという不信感をもち、スパイ容疑を掛けやすくなりました。もちろん、それ以前から、沖縄に対する差別意識がありましたから、それに拍車がかかり、何でもかんでも「スパイ容疑」で住民を苦しめ、時には殺害しています。

 C四つ目は、日本軍の戦争の目的が侵略戦争であったことです。

    アジア諸国を攻めて自分の国に従わそうとする戦争だったため、アジア諸国の国民を軽蔑していました。その心が沖縄戦でも現れて、沖縄住民を軽蔑し、ガマ追い出しを始め、食糧を奪い取ったり、自分の命のためには沖縄住民を殺すなど、日本軍の心がゆがんでいました。

 なぜそうなったかと言えば、沖縄は「大日本帝国」の本国(内地)の一部だという気持ちがなかったのです。他の都道府県と同じ感覚では沖縄は見られていませんでした。明治政府になって、沖縄は遅れて日本に組み込まれた地域という意識です。それは、「大日本帝国」の「外地」である「樺太」や「台湾」よりは少し「大日本帝国」に近い位置という程度です。そういう本土側からの「沖縄観」は明治・大正・昭和を通じて一貫して流れています。(参照[7-戦争被害-7])

 つまり、沖縄で戦っていながら、沖縄を守るという気持ちがありませんでした。それがよく現れているのが、戦闘状態を長引かせるために、住民が避難している喜屋武半島に司令部を移したことです。また、「絶対国防圏」の防衛ライン(台湾・上海・沖縄)の設定からしても、沖縄は守るべき場所ではなく、守るべき内地のための最低限の戦闘場所として位置づけられています。

 このようなことが、実際の沖縄戦の戦場では、「沖縄は自分で守れ」とか「お前らは死んでもいいが俺は死ぬわけにはいかない」という類(たぐい)の日本兵の言葉が証言にでてくる根拠となっているのでしょう。

 D五つ目は、沖縄の人たちが自分の生活を犠牲にしてまで、積極的に日本軍に協力をしたことです。

 沖縄の人たちが明治時代からずっと本土の人たちに差別されていたので、「沖縄戦」では、逆に本土出身の日本兵に対して積極的に協力したことです。日本人として同じに見られたいという気持ちの現れでした。それは、学校教育の中だけでなく、さまざまな場面で強調されていました。天皇中心のものの考え方や軍隊思想に関して「遅れた意識」を高めるために村々の団体組織が動員され、例えば在郷軍人による軍事思想の高揚(こうよう)などが進められていたのです。        (参考「日本軍は沖縄県民をどう見たか」)

 「本当の日本人」になるためにどれだけのエネルギーが使われたことでしょうか。「沖縄戦」では、日本軍のことを「友軍」と呼んで特別な気持ちで接していたのも特徴です。

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