戦争動員
    ここでは、政府が戦争のために、国民をどのように動員していくのかについて回答しています。

[19−戦争動員−1] 軍事教育はどのように行われましたか。

 政府が戦争を始める時、国民を「戦争賛成」にしていくさまざまな政策が、何年にもわたって進められていきます。日本も、この戦争では、「戦争反対」の声を押さえつけながら、圧倒的多数の国民が「戦争賛成」という状況を作っていました。
    人間には、考える力もあるし、優しい心もあるに、なぜあのむごたらしい戦争に賛成していったのでしょうか。それは、やはり「教育」の力が大きかったと言われています。

    教育の中心をなすのが「学校教育」で、他方が「社会教育」、「家庭教育」ということになります。それぞれの場面で、どのように国民を「戦争賛成」に導いていったのかを見てみたいと思います。

    「学校教育」では、先生(校長を含む)と生徒がいますが、先生は教育を担当する役所(国の文部省→県の教学課→市町村の学務委員会)の監督の下で生徒を教えています(このことの基本は現在でも同じです)。証言の中から、先生だった人たちの証言、生徒だった人の証言、そして、役所の教育計画などから、学校教育の内容について説明します。さらに、「社会教育」や「家庭教育」についても触れてみます。
    なお、難しい語句にはふりがなをつけました。また難しい用語などは、(※)で解説をつけました。

(1)学校教育の中で

@先生の立場から[証言から]
〇先生になるためには、師範学校で5カ年間、勉強しなければなりませんでしたが、1928年(昭和3)ごろから学校生活の中で、「軍事教練」(※1)が強化されてきました。軍事教練の成績や出席状況が成績に直接影響するようになりました。

○軍事教練は、1937年(昭和12)頃には一段と強められました。それまで5年生で3週間に1度だけだったのが、4年生から実施され、4年生で1週間、5年生で2週間というにようになりました。

〇軍事教練に参加できなかった者は、卒業時に教員検定を不合格にしたり、5か月の「短期現役(短期間兵隊に入り訓練をうけること)」を7か月に延長したりするなど、制度を改めました。また短期現役を受けることのできなかった者は、教員になるとき他の者より月給が2円もすくなかったです。(当時の初任給40円)。

〇特に師範学校では厳しい軍事教練をうけ、さらに卒業後は短期現役に服して鍛えられ、先生になった後は、毎朝夜明け前に起きて青年の訓練に当たり、その後、学校の準備をして出勤する状態でした。

〇体育は体力の増強という立場から強化されました。
〇太平洋戦争の直前には英語を廃止する運動がありました。英語で使用されていた運動競技の名称も日本語に改められ、野球の「ストライク」、「ボール」は、「正球」「悪球」と呼びかえられるという具合でした。そのほかファールは「もとえ」、セーフは「よし」、アウトは「ひけ」などです。

〇標準語励行は、県下の校長が、県学務部長のもとに集められ、学務部長が標準語の励行は「国民精神」(※2)を高めるためにも必要だということを強調してからのことでした。そして、各学校での標準語励行の実施のようすを報告させていました。また、学務部長命令で、標準語励行の作文や標語を募集し、街にも「標準語励行」のポスターが貼(は)られ、家にも配られました。

〇すすんで標準語を使う子どもは、卒業式で表彰し、なまけた子どもには罰として「方言札」(※3)を首にかけさせたりしていました。
○国民精神を高めるために、県下の中堅教員や次の教頭を師範学校に集め、2、3か月に及ぶ長期講習などもやっていました。

〇日中戦争がはじまってから、官庁や学校で「大麻」(たいま※4)を礼拝するようになりました。出勤薄に捺印(なついん)する前に大麻を礼拝せねばならなくなりました。そして、これを生徒にも押しつけるようになりました。

〇一般家庭にも大麻を奨励するために、名字で青年会が動員され、各家庭の掛軸(かけじく)や香炉(こうろ)が撤去されるようになりました。
〇学校では、毎日全体朝会がもたれ、「君が代」(※5)斉唱のもとに「宮城遥拝」(きゅうじょうようはい※6)が行われました。東に向きをかえ、はるか宮城(天皇がいる所)に向って、君が代の曲の終るまで黙とうをささげました。

〇「祭日」(※7)や「記念日」(※8)には、これに国旗掲場や「教育勅語」(きょういくちょくご※9)の朗読が加わわりました。これらの儀式には町村長その他地域の知名士も参加していました。
〇「黙とう始め」の号令で黙とうが始まると、燕尾服(えんびふく、当時の最高の礼服)に身をつつみ、白い手袋をつけた校長が、「奉安殿」(ほうあんでん※10)の扉を開け、教育勅語を取り出して朗読する間、ほとんど頭を下げたままの連続でした。

〇平日には「御真影」(ごしんえい※11)は、校舎から独立して安全で人目のつく所に丈夫に作られた奉安殿に安置されていました。
〇奉安殿は、登下校の児童生徒や学校に来る一般人の礼拝の的でした。
〇1933年(昭和八年)頃、沖縄本島南部の第一大里小学校長が、御真影の件で責任をとり、割腹自殺(腹切り自殺のこと)をはかった事件があったくらい、校長にとっては責任の重いものでした。

〇学校は、「国体の本義」(こくたいのほんぎ※12)と「臣民の道」(しんみんのみち※13)を一人ひとりの子どもに徹底させることが最高の目標でした。
〇国体の本義を簡潔にいうと「万世一系」(ばんせいいっけい※14)、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく※15)、「義勇奉公」(ぎゆうほうこう※16)の3つになり、教育勅語の精神をいかに徹底させ得たかが、教師の指導力のバロメーターでもありました。

〇1939年(昭和14年)全国から青少年学徒が宮城広場に集まったのを記念に、その青少年学徒に対し、「修文練武」(しゅうぶんれんぶ、※17)・「戦意高揚」(せんいこうよう、※18)のために勅語「青少年学徒に賜りたる勅語」(※19)が公布されました。
〇「大日本青少年団」(※20)が政府の命令によって全国すみずみまでつくられました。

〇天皇制教育は食事の面にまでも及んでいて、「薯とらば天地御代(あめつちみよ)の御恵み君と親との御恩味わえ」(これからいただくものは天皇陛下のお恵であるから、天皇陛下と親に感謝していただきます)の歌を歌いました。

〇子どもたちが「天皇のためなら死んでもよい」と考えるようになったのは、無理のないことでした。教師も、子どもがこう言えるまでになったのはそこまで自分の教育が徹底しているということで、それを誇りに思ったほどでした。
○一方、先生たちは、子どもをそうしむける講習をうけていました。

〇1941年(昭和十六年)師範学校にはその面の特別な講師が派遣され、そのもとに県下の中堅教師(学校の中で中心になっている先生のこと)が集められて、1、2週間の講習をうけています。先生自らがそれを体で感じ取り、学校に帰って子どもの指導に当たったわけです。
〇また、知事のもとに県下の校長が集められて、その席上、国民精神をたかめるためにいろいろな指示伝達をうけました。そして、指示事項は必ず守るべきこととされた校長は、学校に帰った後、職員会議を開いて伝達講習を行ない、ほかの先生方に指示事項の徹底、励行を訴えました。

A行政の立場から

◇昭和19年沖縄県の教学課から各学校に出された指導内容
(証言・「糸満市の沖縄戦体験集」)
決戦教育要項

1、重点
○学校教育をこの決戦教育の一点に集中する。
○各種団体を通じ、教職員が中心となり、一切の生活を決戦体制に整える。

2、主なる内容
○戦意の昂揚と必勝の信念の堅持
○団体訓練の強化
○耐乏生活化運動
○貯蓄増強への協力
○軍工事への積極的な協力奉仕
○出征軍人(しゅっせいぐんじん)の家族並びに遺族への奉仕慰問

◎具体的な活動事例(宮古郡校長会の場合)
1、高学年は飛行場の滑走路工事の作業
2、低学年は滑走路に敷く小石を登校の時持ってくる
3、軍の水汲み
4、野菜の供出
5、道路づくり
6、食糧増産

    以上のことから、当時の日本のすべての学校では、天皇の発した「教育勅語」の精神を子どもたちに徹底して教えこんでいたことがわかります。先生方は、先生になるための教育の段階からその精神を軍事教練によってたたき込まれ、実際の学校教育でもそのために一生懸命になっていることがわかります。つまり、教育勅語の精神に対して何の疑問ももっていない、ということです。また、教育担当の役所も、そういう先生にするために一生懸命になっていることがわかります。
    さて、一方の子どもの方は、どんな気持ちで学校生活を送っていたのでしょうか。

B生徒の立場から(「糸満市の沖縄戦体験集」ら)
〇学校の中心になる所に、コンクリート造りの白亜(はくあ)の奉安殿があった。奉安殿には天皇陛下の写真(御真影)と勅語が納められていると聞いた。神聖な場所で学校で一番大事な建物であった。奉安殿の前を通るときは最敬礼をすることになっていて、生徒たちは登下校の際どんなに急いでいても、立ち止まって礼をして通って行った。
 「天皇陛下の赤子(せきし)として、将来皇国(こうこく)のために働く人になります。」と誓いを立てさせられたと思う。

○集会や儀式のときは「宮城遥拝」で始まる。東京の代々木の森の方向に向かって最敬礼をし、次に「海行かば」を歌っていた。
「海行かば水漬く屍(しかばね−死体) 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ顧みはせじ」(海軍に入って海で戦い水ぶくれの屍になろうとも、陸軍に入って戦で倒れて草むした屍になっても、大君(天皇)のお傍で死のう、決して後悔はしまい)という意味である。天皇のためならば喜んで死のうという教育であった。

集団登校(※21)や団体訓練(※22)で歌ったのはほとんど軍歌で、子どもたちの愛唱歌は軍歌であった。また敵がい心(敵に対する憎しみの気持ち)を植えつけるような「撃ちてし止まむ」という歌もよく歌った。「時、今だ 決意に燃えよ米英の いのち根こそぎ撃ちてし止まむ 撃ちてし止まむ。」(大意…時は今だ。決意を燃やして、アメ リカ、イギリスを根こそぎするまで撃って撃って撃ちまくろう)

〇運動会の団体競技で、運動場の真中にルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、中国の蒋介石総統、三首脳の藁(わら)人形を立て、竹槍(たけやり)で人形の左胸(心臓)めがけて突き刺す競技もあった。
〇学芸会(学習発表会)の劇でも愛国心や必勝の信念を堅持(けんじ)するようなものが多く、あらゆる面で軍国主義教育(※23)が徹底していた。

〇団体訓練の一つに青少年訓練というのがあった。3年生以上で組織し、名字毎に分団をつくり、分団長と旗手が置かれ、名分団毎に分団旗(赤い旗)があった。
〇訓練は午後に行われていたが、とても厳しいものであった。各字毎に分団長の指揮のもとに、閲兵分別行進(えっぺいぶんべつこうしん、※24)をやったが、全体の動作が揃わないと何回もくり返しやらされた。低学年生にとっては訳のわからない訓練であったと思う。

〇その他に手旗信号(※25)の訓練もあった。はじめ上級生が交信しているのを見ていると楽しそうだったが、次第に難しくくなって苦労した思い出がある。
○校内には警報が鳴ってから一分以内に避難できるような退避壕が生徒たちの手によってつくられ、授業中にも避難訓練がよくあった。訓練では、煙を吸わないように又、静かに速く壕に入るために、右手で鼻と口をハンカチで押さえ、右手首を左手で支えながら急いで壕へ入った。

〇防火訓練では、先生と生徒が一体となって学校の防災(ぼうさい)にあたるということだった。訓練では、屋根の上に焼夷弾(しょういだん)が落ちて火災が発生したことを想定して、先生と上級生はハシゴで屋根に登り、下級生は池からハシゴの下まで、2列に並んでリレー式にバケツで水を運ぶ訓練がたびたびあった。
〇ところが実際には役に立たなかった。敵機は台風前の赤トンボのように空いっぱい飛んでいるし、弾も1、2発ではなくて、一度の空襲で村全体が火の海になるような戦場だったから、バケツの水で消せるような火ではなかった。

○模型飛行機づくり…奇数学年は飛行機、偶数学年はグライダーとその型もきまっていた。真壁国民学校は模型飛行機づくりの優良校だったのか、真壁の6年生が高嶺小学校まで行って、地区の先生方の前で、6年担任で首里末吉出身の故新垣良和先生の指導で飛行機づくりの実演をしたり、隣校米須の運動場で飛行大会の模範演技をやったこともあった。模型づくりは作るだけではなくて、飛行機の各部の働きや重心のとり方、飛行機の飛ぶ原理などについても指導していた。今では唯一の楽しい思い出になっている。

○体力検定…今のスポーツ競技のように、その特性を伸ばすようなものではなくて、将来、国の為に働ける人材(軍人)育成のための体力づくりだった。走、短棒(たんぼう)投げ、懸垂等の種目があった。
〇短棒は長さ30センチメートルぐらいの樫(かし)の木で作られ海軍の手榴弾(てりゅうだん)のようなものだった(編注─ボーリングのピン状のもの)。学年毎に初・中・上の三段階の級があって、みんな上級になろうと一生懸命練習した。

高等科生(※26)には軍事訓練…木銃(木で作った鉄砲の模型)をかついでの行進、校外に出ての歩測、目測の訓練(歩幅や目で距離を測る訓練)やその他の軍事訓練が盛んに行われた。
○学生服の金ボタンを切り取って武器をつくるために供出(食糧やその他のものを住民から集めていた)し、「欲しがりません勝つまでは」(戦争前からの国民向けスローガンの一つ)と木製のボタンで我慢した。また飛行機の燃料になる豆(チャンダカサーとか呼んた)を家庭菜園で作って学校へ供出していた。

○戦地にいる兵隊さんへの慰問袋に図画や作文を入れて送ったり、出征兵士の家庭や英霊(えいれい、戦死した軍人)の遺族への奉仕作業が各字毎に行われていた。水汲み、芋掘り、草刈などの奉仕を3年生以上の生徒2・3人ずつ配置されての奉仕作業だった。

〇 朝起会…青年団や字の有志と参加した朝起会(夜明前に集まる)が毎日のようにあった。宮城遥拝の後、軍歌を歌ったりして、次にヨイショヨイショの号令で天突運動(拳を握りしめ片方ずつ天を突く体操)という全身運動で目をさまし、最後は字担任の先生から戦意昂揚(戦争に絶対勝ち抜く決意)のため、大本営発表(※27)の戦果の報告でしめくくる形になっていた。

○軍の陣地つくり…昭和19年、戦争前年の夏休みから、校舎が兵舎に使われたので、1、2年生だけが真壁の村屋(公民館)で勉強し、3年以上は各字毎に近くの部隊の陣地つくりに動員された。奉仕作業ということだが強制であった。先生方も朝から三時頃まで毎日戦車断崖(せんしゃだんがい、敵の戦車を通さないようにする高さ2メートル程の石垣)づくりをやった。石を運んだり、道路や土手に沿って深い穴(戦車を通さないようにする穴)を掘ったりする作業が多かった。雨の日などは字事務所で小銃弾のさびを落としたりする弾磨きであった。

    このようにして、学校でも、地域でも、朝早くから夜まで、「天皇陛下のために」という一点に集中した教育や活動が行われていたのです。もちろん、教科の授業でも、やはり「天皇」が中心でした。幼い子どもたちばかりでなく、先生方も、頭の中は「天皇」ですべてが占められていたにちがいありません。そのような学校教育でしたが、一般の社会ではどうだったのでしょう。

C社会教育の場では(「県史10巻」「知念村史」から)
○最も身近な教育の場は、毎月1回の「常会」でした。人々の集まりの中で、戦争に対する考えが広められ、住民の決意を強めていきました。

○「常会」は、市町村常会、部落常会(都市部では町内会)、隣保常会(隣組)と三段階に別れていて、1940年(昭和15)頃はじまりました。

○国、県からの指示伝達は、まず、市町村常会で徹底させ、そこで受けた指示伝達を「部落常会」で徹底させ、また、そこで受けた指示伝達を「隣保常会」で徹底させる、というやり方をしていました。したがって、常に上の常会が終わった後次の下の常会を開くことになっていました。(このようなしくみを「上意下達」といって、民主主義とは逆の命令で動く社会になっていました。)

○常会はどこでもだいたい同じで、それは次のような要領で行なわれました。まず初めに国民儀礼として、「宮城遥拝」、「祈願黙祷(きがんもくとう)」を捧げ、その後「常会の誓い」を全員で朗読をし、それから「伝達報告事項」、そして「申合せ事項」という順序で会を進めて行きました。常会の中心は伝達報告事項にあり班長(隣保常会の場合)はそれを各班に徹底させるということにありました。また、部落常会(町内会)等には、大政翼賛会(※28)推進員が幹部に加わっていました。

○「常会の誓い」 
「ささやかなこの集ひながら、必ず皇国の礎(いしずえ)として大きな役目を果たします。
この集ひにおいては、互ひに私を去って語り合ひ、ただひとすぢに、皇国につくす覚悟を固めます。
この集ひによって皇国に生れた喜びを新たにし、一丸となって、大御心(おおみこころ)にたたへ奉(まつ)らんことを誓ひます。」
(編注「皇国」…天皇の治める国、「私を去って」…自分を捨てての意味、「大御心」…天皇の心の意味で、ここではアジアを日本の下に置くという大東亜共栄圏のこと)

○指示伝達事項
一、生活戦態勢の強化につきて。
一、中元其他の贈答廃止及孟蘭盆会諸行事の改善につきて。
一、国民貯蓄組合法の実施強化につきて。
一、軍人援護に関する模範隣組の推薦の件
一、興亜奉公日(※29)の実践事項の励行につきて。
一、戦線にある将兵に対する慰問激励強化
一、県民運動たる標準語運動の高度化
一、国民の奢侈並に享楽生活の抑制
一、健康増進運動実施に関して。
一、召集応召兵に関する件
一、経済違反絶滅強調運動に関する件
一、銃後奉公強化運動実施に関する件
一、写真機携帯者に関する件
一、出征軍人の家族は隣組長を通じ、最近の部隊名を報告すること。
一、簡易保険健康相談所利用促進の件
一、国際情勢の緊迫するに連れ防諜(ぼうちょう)意識の昂揚に努めること。
一、隣組を通じ闇防止に努めること。
一、大詔奉戴日設定に関して。
一、紀元節国民祝実施に関して。
一、翼賛選挙の徹底
一、戦勝感謝貯蓄の実践(もっと郵便貯金をしましょう)
一、自給肥料の増産に関して。
一、民間金属類特別回収に関して。(金属の供出をもっとたくさんしましょう)
一、ひま栽培献納に関して。
一、青年教育振興に関して。
一、各戸門札を掲示するよう隣組を通じ示達すること。
一、簡易保険一億国民新加入運動に協力すること。
一、家庭防空壕の強化につきて。
一、皇軍将兵に中元慰問をなすこと。
一、模合金落手者の国債、債券消化の件
一、皇軍慰問県民運動による慰問袋買入
一、火災予防のため、隣組単位に組合員交互に夜警に従事すること。
一、海ゆかば県民皆唱運動実施につきて。
一、戦力増強の為に間に合せの戦時生活の徹底を図りましょう。
一、標準語並に国民礼法励行運動につきて。
一、教化報国実践週間設定
一、県外旅行者の抑制
一、勝ちぬく誓の普及徹底につきて。
一、同情週間(※30)実施に就て。
一、実戦即応の防空陣をしっかり固めよう。 
一、年頭決意の標語宣伝につきて。

○申し合せ事項というのは、これらの内容を各隣組でさらに徹底し、とりくみを強めていくために行なわれた話し合いでした。例えば、宮古島では、次のようなことがありました。

○貯蓄運動が奨励される中で、「ぜいたくは敵だ」といましめをよそおいながら郡民(宮古の人たち)の蓄財(ちくざい)は、国債購入(こくさいこうにゅう)と献金運動を強制することになりました。

○人的資源確保(軍人を確保するという意味)のためには、早婚、多産は美徳とされ、10名以上の出産母親たちが表彰されるようになり、「生めよ、ふやせよ」のスローガンの下で、20歳を過ぎても嫁がぬ子女は、報皇(ほうこう)隊員として、動員令が出され、男性並みの労働を強要されるようになりました。

○服飾面では国民服着用が奨励され背広服の着用は禁止されました。公務員を初め中学生の制服に至るまで軍服を基調としたカーキ色に統一されていきました。婦人にはモンペ着用が勧められ、髪型に至るまで、“パーマネントは止めましょう”の流行歌と共に非常事態を強調していました。

 以上のように、全国の市町村、部落(町内会)、隣組に組織された「常会」を通しての戦争動員の教育でしたが、その他では、新聞・雑誌・ラジオ・映画・レコードなどを通して行われた影響も大きいものがありました。(最近の「アメ リカのテロ報復戦争」についての新聞、テレビなどの報道がそれにやや似ています。)

D国の立場から(「資料日本現代教育史」から)
    文部省は、1940年(昭和15)に「社会教育施設要項」を発表し、次のような社会教育を押しつけています。(編注−講座名は整理しました)

〇中等学校成人教育講座…一般社会人を対象にして、中等学校の学習内容を一般公開しています。内容は、「国の始めと東亜(とうあ)建設の意義」、「アジアの指導者としての日本人の資質」「戦時下における経済活動」「国防や軍事」等が科目として実施されています。

〇家庭教育及び指導者講習会…「皇国の母」、「国家奉仕」、「皇国の子女のしつけ」等が講座名となっています。
 このようにあらゆる組織を通して、「皇民教育」「軍国教育」を徹底的に押し進め、国民を戦争へと駆り立てて行ったのでした。

用語解説
※1「軍事教練」…戦争のための訓練のことで、隊列訓練、点呼訓練、手旗訓練、匍匐(ほふく)訓練、銃撃訓練、突撃訓練、人間爆弾訓練…。
※2「国民精神」…天皇を頂点とした国家であることに、すべての国民が感謝し、国家=天皇のために自分の命を捨てる覚悟のこと。
※3「方言札」…沖縄は特に「標準語励行」運動が厳しく行われ、それに真面目に取り組まない子どもにはこの札を首からかけさせられた。戦後も一時期残っていた。一方、方言を使わない「模範学童」には終業式の日に賞状をやったということです。
※4「大麻」(たいまと読む)…伊勢神宮が売っている「神札」のこと。戦時中、官庁や学校、家庭にそれを礼拝することが強制された。つまり、国民の宗教の自由を奪い、天皇国家の道=神道(しんとう)を押しつけるものであった。現在の「靖国神社問題」につながっている。
※5「君が代」…明治政府は、天皇中心の近代国家の建設のために、「国歌」の作成にとりかかったが、正式に法律で制定することができなかった。はっきりしていたことは、「君が代」が天皇中心国家の象徴として使われてきたことである。日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、満州事変から始まる日中戦争、太平洋戦争というすべての戦争、そして、天皇家に関する行事等には、常に「君が代」は「日の丸」とともに使われてきた。歌詞の内容は、天皇の世がいつまでも続いてほしい、というものである。
※6「宮城遥拝」(きゅうじょうようはいと読む)…天皇が住んでいる所を宮城といい、全国のどこでも、特別な行事を行う時はその方向に向かって深くお辞儀をした。
※7「祭日」…国が制定して国民に祝賀を強制したもので、「新年節」(1月1日)、「紀元節」(2月11日)、「天長節」(4月29日)、「明治節」(11月3日)の四行事を四大節といった。新年節(天皇が五穀豊穣天下太平を祈る日として祝った)を含むすべてが天皇に関する祝日である。つまり、神話の世界でしかない「神武天皇」が日本の国を始めたと言われるのが「紀元節」、昭和天皇の誕生日が「天長節」、明治天皇の誕生日が「明治節」というように、天皇国家の繁栄を祝うもので、それによって国民を戦争へと駆り立てていった。その他に、神武天皇祭、靖国神社祭、波之上祭、秋季皇霊祭、春季皇霊祭などがあったが、沖縄では、四大節が中心だった。
※8「記念日」…主なものを揚げると、「青少年ニ賜リタル勅語」記念日、海軍記念日、日支事変記念日、国旗制定記念日、満州事変記念日、「教育ニ関スル勅語」御下賜記念日、「国民精神作興ニ関スル詔勅」御下賜記念日、皇太子殿下御誕辰日、憲法発布日、満州国建国記念日、陸軍記念日、「五カ条ノ御誓文」煥発記念日、国際連盟脱退記念日などのことで、それらの記念日にも特別な行事を行い、天皇崇拝と戦争準備教育が行われていた。
    これだけの祭日や記念日毎に学校や社会では何らかの行事が行われ、その度に「天皇国家」について教え込まれていったのである。
※9「教育勅語」…正式名称は「教育ニ関スル勅語」で、1890年(明治23)10月30日、明治天皇の言葉として発布された。それ以来、55年にわたって天皇国家のための教育が行われ、国民を悲惨な戦争へと駆りたてていった「悪徳の教典」ともいえるもので、当時、学校では、意味も分からない子どもたちに暗誦するまでたたき込んだ。        
参考「教育勅語全文(口語訳付き)」
※10「奉安殿」…学校の中に、特別頑丈(がんじょう)に、特別目立つ所に造られた小さな堂で、その中には、御真影や教育勅語、その他の勅語が納められていた。中には、明治天皇夫妻の写真もあったという証言もある。
※11「御真影」…当時の天皇・皇后の写真のこと。
※12「国体の本義」…文部省が全国の学校に配った公げの文書である。天皇が日本の主であり、国民は天皇の「赤子(せきし)」とされ、国民が天皇のために忠誠を尽くすのは、日本国が出来た時からの当然のことである、という考えを「古事記」や「日本書紀」の神話の中の「アマテラスオオミカミ」から始まる日本建国の神話をもとにして国民に押しつけ、それが学校教育の場で徹底されるようになった。
参考「国体の本義(全文)(口語訳付き)
※13「臣民(しんみん)の道」…「国体の本義」の中で国民は「臣民」と呼ばれ、主である天皇のためには命も惜しまない、という考えで教育された。つまり、国民の道徳としての道は、天皇のために身を捧げることであった。
※14「万世一系」(ばんせいいっけいと読む)…永遠不変の天皇家のこと。神話でしかない「アマテラスオオミカミ」以降をも引っ張りだして、天皇家がいかに神代の昔から日本の主であったかを国民にうえつけるためのものであった。
※15「忠君愛国」…天皇に忠義をつくすことがすなわち日本を愛することである、という国民主権をないがしろにした、天皇が絶対的な権力を握っていた戦前の言葉。
※16「義勇奉公」…天皇のために命を犠牲にして戦うという意味。
※17「修文練武」…「青少年…勅語」に出てくる文言で、「忠君愛国」のために、学問を修め武道を練ること。「文武両道」と同じ意味。
※18「戦意高(昂)揚」(せんいこうようと読む)…戦争で絶対勝つという意気込みをいう。特に、沖縄では「軍隊意識」が低いと非難されながら、戦争に対する意欲を高めることを強く求められてきた。(※「日本軍は沖縄県民をどう見ていたか」を参照)
※19「青少年学徒ニ賜リタル勅語」…1939年(昭和14)昭和天皇が全国の青少年に発した勅語のこと。短い文章の中に、「国体」を永久に維持していくためには、若い者たちの不断の努力がいかに大切であるか、を説いている。  
              参考「青少年に賜りたる勅語全文(口語訳付き)」
※20「大日本青少年団」…戦争動員の一つの組織で、20歳以下のすべての青少年が参加させられ、青年学校や国民学校と一体となったものであった。青年(15歳〜20歳の男子及び女子)は「青年団」、学童は「少年団」に参加し、各種訓練や活動を強制された。
※21「集団登校」 …集団で学校に登校すること。各部落の上級生が分団長となり、分団旗をもって、登校した。
※22団体訓練…避難訓練、分別行進、消火訓練、御真影避難訓練などのほかに、生活訓練として、登下校訓練、朝礼訓練、儀式訓練、言語訓練、昼食訓練、掃除訓練などがあった。すなわち、朝起きて寝るまでの一つ一つが訓練として行われていたことになる。(参照「戦争中のよい子」)
※23軍国主義教育…明治以来日本がとってきた教育政策の一つで、軍隊の力で国の政治を進めるやり方を教育の中心にすえたもの。「軍国日本」という言葉が学校で教えられていた。当時の憲法でも、軍隊は天皇のものである、という考えだったので、軍国主義教育は、皇国教育と同じだった。この言葉そのものは、戦争が終わった後、戦争の反省として出来た言葉である。
※24閲兵分別行進(えっぺいぶんべつこうしん)…一列横隊、二列縦隊などと、号令にしたがって、列を横や縦にして行進する訓練のこと。軍隊の訓練を子どもにさせていた。
※25手旗信号…赤色と白色の二本の旗で(イロハ…)を作って遠く離れた所へ信号を送るやりかたのこと。例えば、両手を上に大きく広げると「ハ」を表す。主として、戦場での通信手段としての訓練である。
※26高等科生…戦前の国民学校の「高等科」の生徒。高等科は2年生まであり、現在の中学校1、2年生にあたる。(「戦前の学校」参照)
※27「大本営発表」…天皇を中心に戦争に関するいろいろな決定をするのが「大本営」で、国民向け発表したのを大本営発表という。
 太平洋戦争中846回発表されたが、一度も「負けた」という発表はしなかった。また、新聞はその「うそ」をさらに大げさに報道していた。現在でも、「ウソの発表」のことを「大本営発表」と表現する。
 沖縄戦では、「現地軍発表」として地元新聞が報道していた。新聞が発行できなくなると、学徒隊の情報宣伝隊が各地域(避難壕)を廻り、住民に伝達していた。その内容は、ウソの発表で、それを伝える学徒兵たちも心苦しかった、と証言している。
※28大政翼賛会…(たいせいよくさんかい)と読む。1940年(昭和15)1月12日発足した。政党もすべて解散してこれに入って、政府と一緒になって国民を戦争に駆りだす役目をした。
    また、各道府県に支部を作り(沖縄県支部は1940年(昭和15)12月10日結成)、市町村での「常会」の役員にもそのメンバーが所属するなど、政府と一体となって、国民を戦争へ駆りだすために大きな影響力をもっていた。
    沖縄戦では、県知事よりも実際の権限をもっていたという証言もあり、その「実権」が大きかったことがわかる。
    1945年(昭和20)6月13日、「義勇兵役法」の成立によって、その役割を終え、「国民義勇隊」に組織を代えて解消した。沖縄戦では、その役員がそのまま引き継いで各市町村に指示を出していた。
[参考]さらに詳しく「大政翼賛会」「義勇兵法(全文)
※29「興亜奉公日」…1939年(昭和14)9月1日から、毎月1日は「興亜奉公日」(こうあほうこび)と定められ、全国民が戦場の兵隊の苦労を思う日である。
 学校では、「暁天登校」(ぎょうてんとうこう)といって夏は午前6時登校、冬は午前6時半登校。その後、宮城遥拝、黙祷、誓いの言葉、国旗掲揚の行事が行われ、増産・奉仕活動などをして、再び学校集合した後校長訓辞があって解散となった。
 一般社会では、神社参拝、勤労奉仕、一汁一菜(いちじゅういっさい)と禁酒禁煙が叫ばれ、料理店や喫茶店も休業した。太平洋戦争(1941年12月8日)が始まると、今度は毎月8日を「大詔奉戴日」(たいしょほうたいび)として、「興亜奉公日」は廃止され、その精神が受け継がれていった。
※30「同情週間」…戦争の意味を理解させ、この難局を乗り越える気構えを強く持たせるための行事のことで、同情献金(けんきん)などがあった。

 関連1 当時教えられた教育はどんなものでしたか。
 ここでは、授業のことについて説明します。

 当時の学校教育は、先生の教えることは絶対だということが徹底されていました。特に教科の授業では、説明が分からないことに対しての質問はできましたが、内容に対する疑問や反対の意見などは許されませんでした。
 先生も、教科書の内容を忠実に教えることに努力し、教科書の内容に対して疑問や批判は許されませんでした。つまり、教科書の内容をいかに分かりやすく感動的に教えるのかが当時のいい先生だったのです。

 そこで、当時の教科書をみることにしますが、当時は国定教科書(国の文部省が作った教科書で一種類)ですから、教科毎に全国同じ教科書を使っていました。

(1)音楽
国家・天皇・軍隊を讃(たた)える歌や自然・風物を讃える歌がほとんどで、残りが勤労・生産・教訓歌・その他となっています。

(2)地理
「日本の自然の美しさも天皇が国を治めてきたおかげです」と教え、「日本の国は小さいが力は強い、それは国民の心がけが違うからです」と、ひとりよがりの狭い愛国心をあおっていました。

(3)国語
神を敬うこと、忠君愛国、国を守ること、科学産業、地理、自然、体を鍛えることなどで、全体の約三分の二が「皇国民の育成」教材として配列されており、残りが「その他」となっています。(「国語教科書発達史」秋田喜三郎)
 教師用の解説に、「全教材は、表現上配列上渾然(こんぜん)たる一体をなし、国民精神の涵養(かんよう)、もしくは昂揚(こうよう)に於いて一致しているのである。」とあるように、武勇伝(ぶゆうでん)で心をおどらせるのも、自然の美しさに心を傾けるのも、すべてが「国民精神の涵養(かんよう)もしくは昂揚」のためにあったということは否定できせん。
 戦後、それらの教材は「軍国主義の教育」ということで墨で消され、しばらく学校で使用されました。(参照「墨で塗られた国語教科書」)

(5)歴史(当時は国史)
教科書は、天皇中心の読み物で、天皇に奉公した人物を褒めたたえるものと逆に反対の立場の人物を逆賊(ぎゃくぞく)として懲(こ)らしめるためのものが読み物としてのっています。

(6)修身
 戦前の学校の授業で、戦争へ駆りだすために作られた教科は「修身科」という教科でした。現在行われている「道徳」に似た授業で、当時の日本人が生きる目的は、天皇のために奉公することでしたから、そのためにどうしたら良いのか、ということを一つ一つ取り上げて教えていきました。例えば六年生の内容は次のような項目でした。

☆天皇・国家に対する忠義を教えるもの
 皇大神宮(皇室)、国運ノ発展(国家道徳)、同続(〃)、国交、忠君愛国、忠孝、憲法(当時の天皇主権の大日本国憲法のこと)、国民ノ務(つとめ)一、同二、同三、男子ノ務ト女子ノ務、師弟、教育、教育ニ関スル勅語、同(続き)、同(続き) 

☆家族の道徳
 祖先ト家
☆社会生活の道徳
 公益、共同、慈善
☆個人の道徳
 沈勇、進取ノ気性、工夫、自立自営、清廉、良心、勤勉
☆教科書の最初に「教育勅語」があって、暗誦(あんしょう)させられました。

 これらの家族、社会、個人の道徳もすべては、「天皇のための奉公」に結びつけられていて、人間としての生き方は完全に無視されていました。そのため、この教科は戦後廃止されました。

[20−戦争動員−2] 学校はどうなったのですか。

[証言から]
    7月の中旬頃、武部隊の関根隊が東風平方面に配備され、よって校舎全体が同部隊の兵舎として接収(せっしゅう)され、学校が使用できたのは職員室だけで、校長室は隊長の部屋となる。

    そこで勉強の場を失った児童は、東部、西部、南部、北部へと分散し、南部は富盛(ともり、地名)の馬場に夏休みも返上して仮校舎を作ることになり、資材の松丸太は軍が提供し、茅(かや)は一般住民と高等科1、2年生も協力して刈り、床も窓もない茅ブキの仮校舎は8月には完成し、2学期の9月からは仮校舎で勉強するようになったが、教室の数が不足でしたので、午前、午後と交替で国語、算数だけの勉強で、教師は各字担任が指導するようになり、校長は時々自転車に乗って生徒の学習状況を見にこられた。

    この仮校舎も12月上旬頃戦況(せんきょう)が緊迫(きんぱく)して来ると、軍が使用することになり、仮校舎も軍に接収された南部の児童は富盛の砂糖小屋、或いは野呂殿内の神アサギ(拝所の軒下のこと)等で形だけの分散授業となった。

    その頃から、正常な授業等できるはずもなく、また軍への協力が第一だと云うことで、5年生以上の高学年はほとんど軍の陣地構築等に駆り出された状態であった。昭和20年1月頃から疎開等で学校もだんだん組織としての機能を失って統制がとれなくなり、3月頃から児童も各字へと分散し、高学年は区長の配下で軍へ協力するようになり、そして3月23日の空襲、24日の艦砲射撃が始まると、学校も自然解消していった。(「東風平町史」)

 三二軍が入ってきた時から学校の変化が始まりました。1944年(昭和19)、七月頃、日本軍の部隊が続々と入ってきました。沖縄本島をはじめ宮古、八重山、各離島にもそれぞれの部隊が入りました。各地の状況によって少しずつ違いがありますが、大方は、東風平の場合と同じく入ってくるなり、まず学校の校舎を接収しました。

 当時の学校は、村々にあったのは国民学校だけですから、そこを軍隊に取られたので、村屋(公民館)や移民で空き家になった家などで授業をすることになりました。

 国民学校以外には、中学校、農林学校、商業学校、水産学校、工業学校、師範学校、高等女学校等も同様にすべての校舎が軍隊に接収されてしまいました。同時に、生徒たちは、勤労動員ということで、軍隊の陣地壕や飛行場建設などに動員されていきました。
 同年10月10日の大空襲で学校も焼けてしまうところもありました。さらに、1945年(昭和20)の3月には、アメ リカ艦隊の艦砲が加わり、学校だけでなくほとんどの建物が破壊焼失してしまいました。もちろん、日本軍は空襲がはげしくなった時点で陣地壕に立てこもるようになっていました。

 さて、村屋などで授業をしていた学童たちは、2学期になると、「学童疎開」があり、また、十・十空襲以来の空襲で、「公民館」も焼けてしまったり、あるいは日本軍にまたも接収されることもありました。さらに、日本軍の徴用(ちょうよう)に学童たちまで駆り出されました。飛行場や戦車障碍の建設に際して土や石運搬に働かされました。先生が引率をしていました。

    空襲が激しくなると、親たちも疎開や避難に村や町を出ていく人が増えました。当然のことながら、子供たちも親とともに行動して、次第に授業さえできなくなり、とうとう学校は自然休校ということになってしまいました。

[21−戦争動員−3] 大人たちはどうしていましたか。

 一言で言えば、戦争協力が生活の中心でしたから、当然、それぞれの年代、性別、職業などによって協力させられていきました。東風平村の場合を例に証言でみてみましょう。

「証言から」
(男性)
(1)兵隊へ
〇当時徴兵検査も一年繰り上げられ同級生はほとんど初年兵として現地入隊した。
〇観月会もすんでほっとした矢先、召集令状がとどいた。来るべきものが来たと思い、入隊の準備を始めたのである。
〇十・十空襲後間もなく与那原の球第四一五部隊重砲隊へ入隊。
〇昭和20年2月18日、防衛隊の召集と思っていたら、初年兵となっていた。所属は海上挺進第二八戦隊であった。食事の内容等は、当時の馬の餌同然腹を空かしているから食べるのであって、人間の食物でない。
〇私達は約2ケ月位、衛生兵としての教育を南風原小学校(編注、国民学校のことで南風原陸軍病院が入っていた)で受けた。教育内容は、包帯の巻き方、止血の方法等、主として外科の教育内容だった。ひと通りの教育が終わると私は与儀の分院に派遣された。

〇昭和20年3月1日、父親と一緒に玉城国民学校(部隊本部がある)に入隊した。最初の一晩はとてもやさしい下士官だった。翌日から早朝5時に起床し、午後の6時まで厳しい訓練の連続だった。少しでもぐずぐずすると、すぐビンタをはられた。しかし、最初のビンタは痛かった。2度、3度になると痛いとは思わなくなっていた。
〇軍事教育が終ると毎日陣地づくり(壕掘り)である。
〇知念半島では、たくさんの壕とタコ壷を掘った。
〇徴兵検査は、満20歳の時に受け甲種合格だった。昭和18年からは飛行場づくりに駆り出された。 

〇上陸の近づいた頃は、部落に、若い男はほとんど残っていない状態でですね、兵隊検査は、適齢者はもとよりですが、繰り上げ検査もあって、18歳から20歳までは、ほとんど全部の男子青少年が合格で、直ちに入隊しますし、現地召集も1回、2回、3回と予備役が召集されました。防衛隊がやはり3度かあったのではなかったですかね。それで17、8から52、3歳までの男は、残っていなかったわけですね。
〇食べる米はなくほとんどソーメンとキャベツのチャンプルーだった。

(軍属へ)
〇昭和19年3月に高等科を卒業して毎日農業に従事していた。海軍の軍属として佐世保へ派遣されるとの連絡を受けた。数日後役場へ集合し、県庁へ連れていかれた。そこで身体検査を受けた。私は検査に合格し、あとで苦しい目に合う事も知らずに喜んだ。

(防衛隊へ)
〇軍務は桟橋からトーマ学校迄、セメントをかついで運ぶ仕事であった。
〇空襲のあとは壊された滑走路の補修工事等も我々の仕事であった。食事は腹一杯はないのでおなかがすいて苦しかった。
〇班の人で少しでもなまけた人がいると班全体の責任で、なぐる蹴るのひどい体罰を受けた。気を失うと水をかけられ、又なぐられるの繰り返しだった。又、洗面器に水を入れ、持ち上げそのままの状態で立たされて少しでも水をこぼすと尻は蹴とばされ、顔にはにぎりこぶしでパンチをくらい、歯が折れる人もいた。顔はふくれあがり食事も出来ない状態であった。

〇班の仕事の成績が悪いと運動場を何周も走らされたり、お互いの顔を往復ビンタさせられたり、外出禁止であったりと。
〇毎日竹ヤリを持たされていたのでそれの手入れもかかさずやっていた。油を含ませた布でたんねんに手入れをした。
〇昭和18年の終わり頃、読谷飛行場整備(作り)のため1ケ月間の動員に駆り出され、地ならしの作業に従事しました。2〜3ケ月後の2度目の動員も同じく読谷飛行場の整備にあたりました。

〇私は昭和20年2月、「竹槍を持って、どこに集合せよ」との内容の赤紙命令に依り、防衛隊召集を受けたのです。
〇家では幾人かの子供の親父が、他府県から来た若い兵隊にビンタ等なぐられるのが多く、見ていて不憫(ふびん)だった。
〇私たち防衛隊の任務は、その特攻艇(とっこうてい)の整備と、それを川に出して実戦の際の出撃に備えることでした。
〇壕の中にかくされている舟を川に出し、エンジンはかけずに手で押し進める訓練に明け暮れていた。
〇兄の政輝は海軍志願兵で入隊し、私は父と農業に従事していた。私も2月26日に防衛召集と軍人並みに役場の兵事課から通知を受けた。

(青年学校へ)
〇私の時代は、尋常高等学校を卒業して進学する人はほとんどなく、大部分が親の手伝いで農業をし、午後から青年学校に通っていた。青年学校では勉強はなく、竹槍訓練や木銃の軍事訓練を夕方4〜5時頃まで行っていた。
〇青年団の活動としては、1ケ月に1回程度出征兵士の家で奉仕作業をやっており、堆肥(たいひ)を運んだり畑を耕したりした。
〇また、部落の役員や青年団などが、出征(しゅっせい)している家を提灯(ちょうちん)行列してまわり、万歳をした。

(村に残って)
〇私は隊長の命を受け、部隊とは別に自活して軍が確保した水牛をつかって朝は暗いうちに起床、夕方は陽がたっぶり暮れるまで隊長と一緒になって食料の増産にはげんだのであった。
〇家で農業の手伝いをやっていた。出来た砂糖は世名城駅まで馬車で運び、那覇には汽車を利用していた。

〇戦争中は、年令的に召集の対象者であったと思うが、役場勤めの公職にあったので召集は免れたのである。私の仕事は、村の経済や統計的な内容のもので、そのほかに、供出「芋」の割振りなどもやらされていた。
〇当時村では消防団も警防団に変えていた。私は、この警防団員になっていた。警防団は空襲警報の合図をしたり、村全体に空襲警報や警戒警報の伝令(でんれい)をする役目だった。
〇私は昭和2年生まれで徴兵検査まで1年余りもあり、学校に奉職(ほうしょく)するようになった。

(女性)
(軍属として)
〇3番目の姉は、山部隊に勤めていました。
〇2番目の姉も軍にかり出されていました。
〇私は採用され、球一六一六部隊、経理部の経営課勤務になった。首里の役場に2・3人で出向いて、大きな図面から何日もかけて書き写しの仕事を続けていたが、軍が必要とする地図であることから、細かいところまで書き写すので、たいへん難しい作業だった。

(村に残って)
〇部落の近くには、山部隊がいましたから、子供のいない若い女性はみんな、軍の作業に出されて、私もそこへ毎日壕掘りに出かけました。
〇沖縄戦が始まりかける頃、近所に駐屯(ちゅうとん)していた伊藤隊の隊長が、あんたたちは軍に食べものの協力をしなさい、と命令されましたから、私は部落のあちこちの家から、イモクズ(澱粉)を1合か2合ずつ集めて、それで餅を作って、軍に出したりしていました。 
〇私たちは親戚の人たちの協力で、山の中に壕を掘った 

〇息子も家で静養(せいよう)していたが体調も順調でほっとしていた。時々、兵隊は民家に寄り、休む事が度々あって、家で休養している子と友達になり、よく戦の話しをしたり、日本は絶対勝つよ等と大いばりしたりしていた。
〇私は主人の両親と2歳の長女と4名で留守家庭を守っていました。
〇大阪から帰ってきてからは、武部隊と一緒に八重瀬岳の壕掘りや炊事の仕事などをしていた。その頃はまだ平和で、白昼は兵隊の作業を手伝い、夕方は家に帰り普通の生活をしていた。
〇沖縄に帰ってきてからは、しばらくして武部隊でお茶汲みなどの仕事をして働いていた。
〇山部隊の病馬廠(びょうばしょう)部隊で馬の草刈りをする仕事に回された。

(青年学校へ)
〇女性も結婚するまで、青年団員としてその作業をやっていた。部落から兵隊として出征するのが決まると、青年団長の主催で送別会が催された。
〇私は尋常高等学校(国民学校の前の呼び名)を卒業後、補習科に入って機織りの勉強をやったが、当時は女の人は結婚のための花嫁修業みたいに、ほとんどの人が機織りを習っていた。
〇補習科を終えて青年団に入っている当時は、馬場でバケツをもっての消火訓練や敵の飛行機が来るときの行動の仕方などの訓練をしていた。また、竹槍訓練や明かりを漏(も)らさないようにする訓練もした。出征兵士には一生懸命に縫った千人針(せんにんばり)を手渡した。また、旗を持ち村屋に集まって世名城駅まで行って見送りをした。

(本土へ)
〇親は反対していたが、紡績に行くことにした。岡山の紡績工場に行き、8ケ月ぐらい働いた。朝5時に起きると5時半に集合し、6時半まで朝礼などがあり兵隊のようだった。食事が終ると、機織りの仕事に入り4時半ぐらいまでやったと思う。夜勤というのはなかったので、その後はお花などの習い事をしている人もいた。

戻る次へトップへ