平和への道
ここでは、先の戦争の責任問題と平和創造の道について回答しています。

47−平和への道−1] 沖縄の人々は(沖縄戦を)どう受けとめたのですか。

 このことについては、一人一人がそれぞれの思いで沖縄戦を生き延びてきたわけですから、当然この戦争に対する気持ちもそれぞれ違うことは、それぞれの証言の中からも読み取ることができます。

 具体的にどういうことかというと、まず、沖縄戦が始まり、そして避難生活が始まった後も、多くの住民は「日本は絶対に勝つ」ことを信じていました。したがって、その時点では、戦争に対するあれこれの気持ちはなく、ひたすら勝ち抜くことだけに気持ちを集中していたのです。

 しかし、戦争が長引き、目の前で肉親や友人、知人がどんどん亡くなっていくし、自分自身もいつ死んでも不思議でない状況が続いていくと、戦争の恐ろしさが誰の気持ちにもはっきりと現れました。それまでは、「戦争がやってきた」と言う物珍しさの気持ちがあったことも確かで、戦争を見に行くという証言もあるくらいです。まるで、戦争が自分とは関係なく行われているという感覚です。それは、すでに、国民の間に戦争が「勝つもの」「勇ましいもの」という感覚があったからです。現在の言葉で言えばゲーム感覚だったといえるでしょう。

    そして、その感覚も実は政府が国民に植えつけたものでした。なぜなら、日本は、これまで「元寇」の戦い以外は、国外で戦争をしてきました。日本に軍隊が出来た後の、「日清戦争」「日露戦争」「第一次世界大戦」もそうです。しかも、すべてが勝利した戦争でしたから、国民には、戦争の本当の姿が見えませんでした。

    戦争は「勝つもの」「勇ましいもの」ということが宣伝され、教育されて、国民の中にも信念のようなものが植えつけられていたのです。今度の戦争でも、「大本営発表」は「連戦連勝」の発表でした。結局戦争が負けるまで、一度も「負けた」という発表はありませんでした。

 このような政府の戦争に対する政策を信じこまされていた国民ですから、沖縄戦でも、住民が「負けるわけがない」と思うのも無理のないことでした。日本兵のなかには、今度の戦争は負ける、という人もいましたが、それには住民から反発がくるくらいでした。

 ほとんどの住民が本当に戦争の実態を知った時は、もう自分の意志ではどうにもならない状況になっていたのです。結果は、あのような悲惨な終末を迎えたのです。

 自分が体験した時、本当のことが分かることはたくさんあります。しかし、戦争のように、愛する者の大切な命を奪われてから気がついても遅いのです。その時になって、あの時なぜ、戦争に反対しなかったのか、という後悔をしても始まりません。死んで行った肉親や友人や知人、そしてその他大勢の人たちの命は戻ってきません。

 そのような中から、沖縄の人たちは、戦争というものに対するはっきりとした考えや気持ちをもつようになりました。それは、「戦争はいやだ」でした。真に心の中からそのように思いました。沖縄の戦後はそこから始まりました。あの悲惨で残酷な戦争を繰り返してはいけない、そのためにどうするのか、ということを考え、行動することから始まったのです。

 例えば、戦争で亡くなった人たちの遺骨を集め納骨したり、慰霊塔や慰霊碑を建てて慰霊祭をしたり、体験を聞いて記録に残したり、自分の体験を語り聞かせたり、戦争につながるもの(戦争を美化した映画や雑誌、おもちゃなど)を取り除く運動を進めたり、戦争のための軍事基地(米軍基地や自衛隊基地)に反対したり、軍艦や潜水艦の入港に反対したり、絵や彫刻を作成したり、映画やビデオ、劇、踊り、歌などを作ったり、写真集や本を発行したり、戦跡を案内したり、勉強会を開いたり、学校の授業で教えたり、平和祈念館や資料館を作ったり、集会やデモをして訴えたり…、戦争につながる法律や政策に反対したり…、さまざまな人がさまざまなことをしてきました。

 これらのことは、沖縄の人たちが味わった戦争の悲惨さや残酷さを絶対に繰り返してはいけないという人々の思いで続けられてきました。体験者の中には、あまりの残酷な体験のショックが強く、自分の心の中に閉じ込めたままの人もいました。10年、20年、30年、40年、50年と次第にその体験を話すことができるようになった人もいます。戦後56年の現在でも、その体験をまだ話せない人もいるのです。

 実際に沖縄戦を体験した人も、だんだん老齢化し、少なくなっていきます。しかし、この人たちの「戦争反対」の思いは、確実に沖縄の人たちに伝わっています。中には「いやなことは忘れた方がよい」という人もいますが(意図的に戦争を忘れさせようとする人たちもいます)、忘れることが人間の歴史にとって有意義なことは忘れた方がいいかもしれません。しかし、人間の一番大切な命に関わることについては、絶対に忘れてはならないのです。なぜなら、一度失った命は二度と戻らないからです。

    本来、国家も政府も、そこに住む人々の命を守るために作られたものです。その根源を忘れ、国家や政府のために人々の命が奪われるというのはとんでもない間違いです。戦争はその中の最大で最悪のものです。沖縄に昔からある「命どぅ宝」の言葉が生きて輝く社会の実現が沖縄の多くの人たちの気持ちなのです。

[48−平和への道−2]  戦争に反対する人はいなかったのですか。

 戦争が始まる前から、もちろん、戦争に反対する人たちはいました。そのような人たちは、政府が進めている政治は、戦争への道だと、新聞、雑誌、演劇、集会等で国民に訴えていました。一人一人は弱いので、団結し、政党、労働組合、団体などいろいろなところで頑張っていました。それに対して、政府は、反対する人や組織に対して、法律(「治安維持法」)や規則を作り弾圧していきました。弾圧の対象は、組織、人、そして、新聞・雑誌・演劇・集会・映画・歌まで及びました。

 組織では、まず「共産党」を法律で活動を禁止しました。人では、共産党員や支持者のリストを作り、ことあるごとに検挙し、形だけの裁判をし、投獄し、拷問(ごうもん)にかけました。新聞や雑誌を発行禁止にしました。演劇や集会は、特高(特別高等警察)が見張っていて、「危険思想」にこじつけて「すぐ中止」「すぐ解散」をさせました。それでも、「共産党」関係者は隠れて活動(地下活動)し、新聞、雑誌も隠れて発行していましたが、相次ぐ検挙・投獄の中で活動はできなくなりました。

 政府の弾圧は、戦争に反対していた組織や人、新聞・雑誌などをすべて一挙に弾圧したわけではありませんでした。政府は、国民に対して「共産主義=危険思想」(アカ)を追放する、という宣伝の下で行い、一般国民に「アカ」は恐いというイメージを植えつけ、弾圧支持のムードをつくっていったのです。ですから、ほかに「戦争反対」を訴えていた組織や人たちも、弾圧されるのは共産主義者(党)とその支持者だけだと思っていました。

 しかし、政府は、他の組織、人たちも「共産党」とむすびつけて弾圧を拡大し続けました。「社会主義者」が弾圧され、政治以外の団体にも広がりました。大学、教職員組合、労働組合、民主的教育団体、進歩的教育団体、サークルや学生、「自由」を唱える者、「民主主義」を唱える者、「神道」以外の宗教者、「進歩的な考え」の者、「政治を批判する」者、「芸術家や文化人」「贅沢な人」「派手な人」へと次々に弾圧の対象を広げていったのです。

    つまり、最初は最も強く反対していた「共産党」関係者、次に反対の度合いが強い順序に弾圧し、今度は「反対」でなくても、「戦争遂行に邪魔になる考え」の者まで弾圧していったのです。例えば戦争はいやだ、というムードの映画は上映禁止、哀しいメ ロディーの歌はレコードの発売禁止、戦争反対や戦争はいやだ、と解釈される文章は、活字を抜きとり発行させる、というようにあらゆる手を使って弾圧は続けられました。証拠もないのに「頭の中で考えている」ということまで持ち出してくるなど、弾圧の方法は目茶苦茶でした。

 「治安維持法」による弾圧は、1928年(昭和3)から1945年(昭和20)まで、およそ数10万人といわれる人たちが検挙(けんきょ)され、75、681人が送検(そうけん)されました。そして、直接拷問による死者が65人、それがもとでの死者114人、病死その他不明の死者1,503人となっています。

    沖縄でも、教員の研究会や村の村政革新運動、消費組合運動に参加している人たちが、共産主義思想と関わりがあるというでっち上げで逮捕、拷問、投獄などで、戦争反対につながるものすべてに弾圧を加えました。

    このような弾圧は、日本の戦前の政府だけではなく、世界の権力政治の常識となっています。政府は、政策を遂行していく時、特に戦争遂行においては国民の反応を気にします。それは、戦争が国家のすべての力を使って進められるため、国民の協力がなくてはとうてい戦えないからです。そのために、国民の反応に沿う形で、政府の考えと最も離れた考えの者から取り除こうとします。そして、反対者を取り除くために、反対する者たちの力をばらばらにすする方法をとります。裏を返せば、戦争を進める政府が最も恐れるのは「反対する国民の団結」ということが分かります。

    先の第2次世界大戦で、同じくファシズムのナチスドイツで、ナチスに抵抗した牧師のマルチン・ニーメラという人がこんな言葉を残しています。「共産党が弾圧された。私は共産党員ではないので黙っていた。社会党が弾圧された。私は社会党員ではないので黙っていた。組合や学校が閉鎖された。私は不安だったが(関係ないので)黙っていた。教会が弾圧された。私は牧師なので、立ち上がった。そのときはもう遅かった」

[49−平和への道−3] 戦争の責任は誰がとったのですか。  

1 政府と天皇の対応 2 アジアでの日本軍の犯罪
3 戦時経済活動 4 政党・政治家の責任
5 中間のまとめ 6 教育・教師の責任
7 マスコミ・その他 8 個人として
9 沖縄の場合 10 なぜ、真の戦争責任が問われなかったか

 日本の政府が起こした先の戦争で、日本を含む多くの人たちの命が奪われ、その数は約2〜3千万人と言われています。気の遠くなるような数の人々の命を奪った戦争を起こした責任は誰がとるのでしょうか。ここでは、政府(天皇)、軍隊、政治、経済、教育、その他について説明します。

1政府と天皇の対応

 敗戦が決まった1945年(昭和20)8月15日以降、政府内ではさまざまな動きがありました。
○政府は、天皇の一族である東久邇(ヒガシクニ)を首相にして、新しい内閣を発足させました。しかし、それは、戦争を反省しその責任をどうとるかとか、国民の生活をどう安定させるのか、というものではなく、「天皇国家」の擁護が重大事でした。
○東久邇首相は、国会演説で、「一億総懺悔(いちおくそうざんげ)」を国民に訴えました。今度の戦争は国民すべでが悪かったと反省しましょう、ということです。
○マッカーサーが東条英機ら38人を逮捕した時、戦争責任が天皇に及ぶのを心配した政府は、天皇をマッカーサーと会談させました。そして、会談後の写真が新聞に載るのがわかると新聞の発行を禁止しました。)
○9月26日、有名な三木清という人が獄死したことから、戦争中弾圧された思想犯がまだ獄中にいることがわかり問題になりましたが、政府は、「思想警察は活動を続け、天皇制廃止を主張するものは、逮捕される」と発言しました。
○マッカーサーは、「政治犯の即時釈放、思想警察の廃止、天皇制批判の自由」などを発表しました。これに対して、東久邇首相は、「天皇が自由に批判されるのは忍びない」と言って総辞職してしまいました。

 以上のように、政府は何一つ反省することもなく、世界の世論から天皇を守ることだけを考えていました。

 一方の天皇本人は、マッカーサーとの会談で、「すべての責任は自分にある。自分はどうなってもかまわないが、国民のことをよろしく」と言った、と報道されましたが、天皇には、次のような発言もあり、真偽のほどは現在でもなお不明のままです。

・「天皇に対する米国側の論調に対し頬被り(ほおかぶり)で行くと云ふも一つの行方なるが、又更に自分の真意を新聞記者を通して明にするか或はマ元帥(マッカーサー)に話すと云ふことも考へらるゝが如何…」(側近への言葉)

・「私がもし開戦の決定に対して「ベトー」(拒否権)をしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても、結局狂暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦もできかねる始末となり、日本は滅びることになったであろうと思う。」(記者会見で)

・「戦争責任についてどう考えているか」との質問に、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そうい各問題についてはお答えができかねます」(記者会見で)

昭和天皇の発言へ

○国内では、敗戦の年の12月8日、「戦争犯罪人追及人民大会」(民間主催)が開かれて、戦争責任を追及する世論が高まりましたが、国民全体には浸透しませんでした。多くの国民は、まだ天皇を戦争犯罪人とするまでは考えていませんでした。人間の意識は簡単に変わるものではありませんでした。

○マッカーサーはそのような国民の気持ちを知っていたのか、日本の占領政策は、天皇の責任追及をしない方がうまくいくとみて、以降天皇の戦争責任は伏せられたままでした。

○翌年5月3日、極東国際軍事裁判(東京裁判)が始まり、東条英機元首相ら29人が起訴され、原告はアメ リカ、イギリス、中国、ソ連、など11カ国。1948(昭和23)年4月6日、絞首刑7、終身禁固刑16、20年禁固刑1、7年禁固刑1の判決が下されました。

○天皇の責任問題は、諸外国などの声もありましたが、アメ リカの指揮権で進められた占領政策によって、うやむやにされていました。しかし、側近たちの証言は、天皇に戦争責任があったことを証明していました。

・「結局、統帥権(とうすいけん)の問題になる。従って窮極(きゅうきょく)は陛下の責任ということになるので、…」(近衛元首相)

・「日本国の臣民が、陛下の御意志に反して、あれこれすることはあり得ない。」(東条英機元首相の裁判での発言)

○一方天皇は、次のように発言し、戦争開始、敗戦、沖縄占領などから逃げていました。
・「敗因について一言いはしてくれ。我が国人があまりに皇国を信じ過ぎて英米をあなどつたことである。…我が軍人は精神に重きをおきすぎて科学を忘れたことである。…軍人がバツコ(編注、いばっていること)して大局を考へず進むを知つて退くことを知らなかつたからです」(「皇太子への手紙」)

・「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」(マッカーサーの政治顧問に伝えた天皇のメッセージ)

・「沖縄をアメ リカが占領して守ってくれなければ、沖縄のみならず日本全土もどうなったかもしれない」(昭和54年の発言) 

 以上は、直接戦争を起こした者の「平和に対する罪」「人道に対する罪」としての戦争犯罪の裁判ですが、これを「A級戦犯」と呼んでいます。他に、戦場で、捕虜を虐待した罪などでも裁判が行われ、「BC級戦犯」として、約5700人が有罪判決を受けています。その中には、強制的に動員された朝鮮人捕虜監視員148人、台湾人173人も含まれています。

 この裁判では、沖縄の防衛隊員も「石垣島事件(島で捕虜になった米兵を日本兵の命令で殺害した事件)」で日本兵と共に起訴され、死刑が宣告されていましたが、仲原善忠氏らが、当時の防衛隊のいきさつなどを嘆願書にして減刑嘆願した結果、防衛隊員は死刑を免れたことも含まれています。

2アジアでの日本軍の犯罪

 先の戦争は、他国を武力で占領するという侵略戦争だったので、中国・朝鮮その他のアジアの国々の国民にも多大な犠牲をもたらしました。以下日本軍がアジア諸国で行った戦争犯罪のあらましです。

◇「朝鮮」…犠牲者約20万以上

○戦争前…1876年(明治9)朝鮮に対して経済介入から軍事介入へ、1904年(明治37)軍事占領、1910年(明治43)に朝鮮併合。その間にも多くの朝鮮人が虐殺されました。

○1938年(昭和13)以降は、教育の場で朝鮮語を禁止し、1940年(昭和15)には「創氏改名」(そうしかいめい)が行われ、名前まで日本名に変えさせられ、町や建物、山等の名称や生活習慣まで日本式に改めさせられました。

○1943年(昭和18)、これまで「志願制」だった日本軍への動員が「徴兵制」に切りかえられ、その結果、23万人の兵士と15万人の軍事要員が戦場に送り込まれました。沖縄戦でも、朝鮮人兵士がたくさんいたことが証言に出てきます。

○朝鮮人4万3千人を強制連行し、当時日本の植民地であった樺太(現在のサハリン)の炭坑で働かせました。この人たちは、ソ連参戦と日本軍降伏によって現地に放置され、現在まで韓国に帰されていません。また、日本軍による虐殺事件もあり、その他にも大量虐殺計画が知られています。

○1939年(昭和19)、政府は「労務動員計画」を発表し、朝鮮人の強制連行を始めました。最終段階では、まるで「ウサギ狩り」をするように部落を包囲して強制連行が行われました。このようにして日本国内の炭坑などで働かされた朝鮮人は、1940年(昭和15)から敗戦までに67万1607人におよびました。そこは、鉄条網で囲われ自由はなく、「どんぶり一杯の、米のない豆ご飯と中身のない味噌汁」という状況でした。逃げて捕まり、拷問を受ける人もたくさんいました。

○戦後1945年8月末、この人たちが乗った引き揚げ船が京都の舞鶴港で謎の爆発で沈没し、朝鮮人3千725人のうち、549人の人が死亡しました(日本側発表)。しかし、「7千人」という証言もあり不明です。その原因についても、日本側発表は、「地雷にふれての爆発」でしたが、「さんざん痛めつけた朝鮮人に、戦後報復されると思い込んだ日本軍が船ごと爆破したに違いない」という見方も有力です。

○従軍慰安婦問題でも、たくさんの女性が強制的に連行され、日本軍の戦場地域に動員されています。沖縄戦でも「慰安婦」が出てくる証言がありますが、その中には朝鮮人も出てきます。
また、日本軍が部隊名入りで、新聞に「従軍慰安婦募集」の公告を出していることは驚くべきことです。

中国…犠牲者約1千〜2千万人(現在も調査中)

○1931年(昭和6)、日本軍は、奉天(ほうてん、現在の瀋陽)市付近の柳条湖で鉄道を爆破し、これを中国軍がやったとして軍事行動を起こし、日中戦争を始めました。それから日本の敗戦までの15年間、ずっと戦場だったのが中国でした。中国は日本の戦争犯罪の最大の3点に、「南京大虐殺」「七三一部隊の蛮行」「三光作戦」をあげています。

○「南京大虐殺」…1937年(昭和12)12月、日本軍は南京を占領しました。その後「南京大虐殺」は行われました。その実態は現場で目撃した外国人記者たちによって世界に報道されましたが、日本では知らされませんでした。当時は、すべての言論報道を政府が統制していたからでした。

    その内容は、中国軍捕虜や一般住民20万〜30万人を虐殺。日本兵による略奪の横行、39日間に及ぶ放火による火災、2万件に及ぶ婦女暴行事件…。その実態は酷たらしさに満ちています。まさに、「三光作戦」(焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす)を実行した典型的なものでした。
 このような虐殺、略奪、放火、婦女暴行事件は南京だけでなく、日本軍が占領した各所で行われています。

○「七三一細菌部隊」…正式名称は「関東軍防疫給水部隊」と言われ、中国東北部ハルピン市郊外にありました。中国人などを使った細菌兵器の開発と生体実験(マルタと呼ばれ、生きたまま解体などを行った実験)により3千人以上を殺害、ペスト菌に感染したノミの増殖研究と実際の使用、犯罪の証拠を隠すための大量虐殺、周辺の村での集団実験等があげられています。

○従軍慰安婦問題…南京を占領した日本軍は、1937年(昭和12)「登記」という名目で、南京市民を出頭させ、数千人の若い女性を強制的に収容し、慰安婦として南京や上海の「慰安所」に送りました。それ以外にも、約2万5千人の人たちが、拉致(らち)同様に慰安婦にされた人たちがいるといわれています。この人たちは、戦線の拡大にともなって、東南アジアの慰安所に送られています。

○「毒ガス兵器」…1937年(昭和12)中国への全面戦争を始めた直後、化学戦部隊を華北(中国北部)に派遣する勅命(天皇の命令)が下り、1938年(昭和13)8月〜11月までに375回の毒ガス兵器の使用をしています。中には、住民が避難していた地下壕に毒ガスを放って、800人以上を殺害しています。敗戦時、日本軍はこれら毒ガス兵器(砲弾200発・化学剤約100トン)を放置したまま撤退(てったい)しています。

○「強制連行」…朝鮮で行われた「ウサギ狩り」は、中国でも行われました。例えば山東半島では、10メートルごとに日本兵が並び、一斉に北上しながら「人間狩り」が実行され、日本に送り込まれて強制労働をさせられたのです。その数は4万1762人で、日本の敗戦までに、6512人が虐殺や栄養失調などで死亡しました。

ベトナム(当時仏領インドシナ)…犠牲者約2百万人餓死

 日本軍が、フランス領インドシナ(現在のベトナム、ラオス、カンボジア)へ侵攻したのは1940年(昭和15)です。それから5年間、日本は徹底的に米を調達しました。その結果、1945年(昭和20)には、米の不作と相まってベトナム北部を中心に200万人以上の人々が餓死に追いやられました。

インドネシア…犠牲者約400万人

 はじめ、「日の丸」と「インドネシア国旗」をあげて「インドネシア独立のため」と言ってやってきた日本兵は、まもなくインドネシア国旗掲揚、国歌斉唱を禁止し、農村では米を供出させ、ロームシャ(労務者)として住民を強制連行しました。強制労働のなかで多くの人が死亡したが、実数は不明です。また兵補(へいほ・日本軍の補充部隊)として半強制的に徴兵していました。日本軍の慰安所が作られ、現地から慰安婦を強制的に集めました。

フィリピン…犠牲者約111万人余

 1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃と同じ日、日本軍はフィリピンへも攻撃を開始して1942年4月全面占領しました。その時、最後の占領地から捕虜(米兵とフィリピン兵)7万8000人を約120キロ離れた収容所まで行進させました。傷病兵を中心に約1万人が死亡しました。「パターンの死の行進」といわれています。行進中に地元の人たちが捕虜に水や食糧を与えると、日本兵は地元民を殴ったり、殺害したりしました。

シンガポール…犠牲者約5000人虐殺

    1942年(昭和17)2月、日本軍が、シンガポールを占領すると、中国系住民に絞った「華人大虐殺事件」が始まりました。日本軍は6000人と報告していますが、2万人は下らない、といわれています。一方、東京時間を使い、通貨や切手その他生活のすべてに日本語を強制しました。

◇タイ…犠牲者数不明

    1941年(昭和 16)12月8日、日本軍はタイへ上陸、タイ占領を開始しました。その後、タイ側が戦闘を停止して、事実上の日本の軍事支配が行われました。8か月後、西への侵攻ルートとしてタイとビルマ(現在のミャンマー)を結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」の建設のために、捕虜約6万5000人、東南アジアから集めた「ロームシャ」約20〜300万人を使いました。人力による突貫工事で、捕虜1万2000人、「ロームシャ」の約15万人が死にました。怪我・病気・栄養失調は放置され、処刑、体罰、虐待が加わっての死亡でした。そのため「枕木一本、死者一人」と言われました。

 死亡した連合軍側の捕虜は、アメ リカ、オーストラリア、イギリス、タイ、オランダ出身の兵士で、「ロームシャ」の出身地はビルマ、インド、マレーシア、インドネシア、朝鮮、台湾などでした。

◇マレーシア…犠牲者1万3000人以上

 1942年(昭和17)3月、マレーシアに侵攻した日本軍は、1万3000人以上の住民を虐殺しています。中国系住民をねらったものでした。また、民族の誇りを無視した「日本精神教育」が行われ、「臣民」教育、「創氏改名」、日本語押しつけ、宮城遥拝(きゅうじょうようはい、天皇のいる所に向かって拝むこと)、君が代斉唱、日の丸掲揚などを強制しました。

 このようないまわしい数多くの戦争犯罪に対して、日本政府は、国と国との関係の中で処理される「賠償金」という名目で、その清算をしたことにしていますが、虐殺や強制労働、強制預貯金、精神的屈辱など、個人の生命と財産の損失に対しての賠償は支払われていないし、責任もとられていません。それぞれの国の被害者たちは、日本政府を相手に賠償請求と責任追及を進めていますが、日本政府は現在もなお無視しています。

 アジアの人々は、賠償請求に含まれる日本の戦争責任に対する姿勢を問題にしています。それに対して、日本政府は、「侵略戦争」を認め、その非を謝っていはません。それどころか、「従軍慰安婦問題」や「靖国神社問題」、「教科書問題」などで、歴代の首相や大臣たちは、アジアの人々の気持ちを逆なでする発言を繰り返しています。

3 戦時経済活動

○朝鮮…1932年(昭和7)から5年間で朝鮮の米生産高の約半分を買い占め、日本に持ち込み、朝鮮人を食糧飢餓に追いやりました。

○台湾…米の生産の半分が日本に買い占められました。

○満州(日本が現在の中国東北部に作ったかいらい国家)…大豆・小麦を安く買い占め、反対に日本の衣料品を高く売りつけました。鉄道、炭坑、製鉄所などでは、ただでさえ安い賃金の日本人の三分の一の賃金で働かせました。

○太平洋諸島…石油、生ゴム、木材などを買いあさり、その代価として砂糖、塩を売りつけました。

○中国…日本の工場が進出し、地元の工場を倒産に追い込み、生産も労働力も握り、安い賃金で働かせ、多くの生産をし、高く売りつけました。

○これらの買いつけには、貨幣として信用のない「軍票(ぐんぴょう)」などを使った結果、貨幣の価値は下がり、はげしいインフレとなり、現地の経済は麻痺(まひ)するようになりました。

 当時日本の経済活動の中心は、四大財閥(ざいばつ)といわれた三井、三菱、住友、安田とその他の大企業でした。これらの財閥・大企業は日本軍の援助を受けながら、国内外での経済活動を進めていました。

 その業績は、「建設資材、生活必需品その他すこぶる成績良好なり。」(三井物産、中国からの報告)「太平洋戦争下の当社の業績は、…毎期好成績を挙げて」(三菱商事)などのように戦時経済の好調さを物語っています。それは、次のことを知れば当然のことだということがわかります。

 「軍事費は国家予算の約八割前後でその中心は兵器のための支出、そのうち、約六割以上が、三菱重工業、住友金属、日立製作などの機械工業へ、ついで三井物産、三菱商事などの商事会社へ、満鉄、日本郵船などの運輸会社等々へ支払われた。…財閥をはじめ独占資本にとっては、戦争は非常にもうけになる商売であった」(大蔵省1965年)

 また、財閥・大企業は、国内では、産業報国会、学徒勤労動員、強制連行による強制労働の中国人や朝鮮人をただ同然で働かせました。

 さらに、アジアの占領地では、各種建設工事を請け負い、工事のために強制連行された「ロームシャ」をただ同然で働かせました。なかには、「アヘン貿易」に関わった企業もありました。

 戦後、このような財閥はアメ リカ占領軍によって解散させられましたが、財閥たちは、何ら戦時経済活動に対しての反省もなく、逆に解散を不服として、いいわけと開きなおりの発言が相次ぎました。

4 政党・政治家の責任

    戦前の政党は、保守党として「政友会」と「民政党」があり、社会民主主義政党として「社会大衆党」がありました。この三政党は、侵略戦争を推進し、支持していた政党ですが、1940年(昭和15)解散して、天皇政府が進める戦争に協力する「大政翼賛会(たいせいよくさんかい)」に合流しました。それは、自ら政治家の役目を投げ捨て、天皇政府と一体となって国民を戦争へ駆り立てていくことを宣言したも同じことでした。つまり、政治家の命である政党政治を終わらせたのでした。

    これより先、戦争にも「大政翼賛会」にも反対していた共産党が非合法(法律に基づかないもの)にされ、しばらくして「日本無産党」も解散させられ、弾圧の対象となっていました。

    これ以降、戦争遂行のための法律が、すべて全会一致で決まっていったのです。戦後、批判もなくすべてが全会一致で決まることを意味する「翼賛政治」という言葉ができるぐらいひどいものでした。

 戦後、政党政治が復活すると、戦争を支持し押し進めていた政党の指導者たちが、再び政党政治家として政治の表舞台に現れました。しかも、自らの戦争遂行の責任をとることもなく、また反省もなく、同じ流れを引き継ぐ政党の指導者としてです。そして現在、この政治家たちと同じ流れを組む後輩たちが、「戦争美化」や「正義の戦争」発言をし、アジアの人たちを怒らせているのです。

5中間のまとめ

 以上、アジア諸国に対する軍事的犯罪や政治的犯罪、経済的犯罪、文化的犯罪などがいかに大きいかをのべました。しかし、政府も経済界も国家的犯罪である先の戦争行為に対して、その責任を感じていません。それどころか、政治界、経済界を中心とした人たちの中から、「戦争賛美」の声さえあがっています。その根底には、「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」の目的は、ヨーロッパ強国の支配から、アジアを解放し、アジア同士が栄えるための戦争であった、という考え方があります。

 しかし、先にみてきたように、「大東亜共栄圏」のうたい文句であった「白人を追い出し」はそのとおりになりましたが、「アジアが共に栄える」ということにはなりませんでした。ヨーロッパ強国に代わって日本が居すわっただけで、日本の目的がなんであったかをはっきりと示す結果になりました。

 しかも、日本は、アジアの国々の歴史や文化を変えて、日本化するという「皇民化」政策も押しつけました。すべてを日本化することが「共に栄える」ことだとするなら、それは恐ろしい独りよがりだといえるでしょう。

 現在、日本の企業がアジア諸国に進出していますが、アジアの人たちは、「日本の政府(政治家)や経済界が、まだ本当に謝罪していない、再び同じことが繰り返されるのではないか」という危機感をもっています。
 「従軍慰安婦問題」や「靖国神社問題」、「教科書問題」などは、日本政府が先の戦争を日本の過ちであったことを素直に認め、謝り、責任をとることがないかぎり繰り返され、アジア諸国からの日本に対する信頼感は生れてこないでしょう。

6教育・教師の責任

    戦前、政府は戦争を進めるために学校教育を利用しました。その学校で直接子供たちに接したのが教師でした。もちろん、教師は戦争の計画者でもなく、また遂行者でもないのですが、ひたすら「天皇国家思想」を子供たちに吹き込んで、子供たちを戦場へ送る役割を果たしていました。政府のやり方を見抜いていた一部の教師たちを除いては、「皇民化教育」の熱心な指導者でした。

    また教師は、当時の社会では地域の指導者でもありました。青年学校での指導や村の常会での発言は住民の意識を左右しました。そのような立場の教師たちが先の戦争で及ぼした影響には大きなものがあります。

    戦後、教師たちは教職員組合を作って、「再び教え子を戦場に送らない」という誓いを宣言しました。それは、教師の過去の過ちを認め、反省をあらわしたものでした。

   しかし、教師の戦争責任の反省は、その団体が行えばそれでよし、というものではありません。なぜなら、教師は、子供たちに最も近い場所にいたからです。子供たちの心と触れ合って教育をしていたからです。昨日まで「天皇のために」を子供たちに教えていた教師が、今日は「民主主義」を語る事態の中で、己の立場の果たす意味を厳しく問われなければならなかったのです。

  戦前から戦争中にかけて、教えるために自らの血肉とした「天皇国家思想」から抜け出ることは、簡単なものではありませんでした。多くの教師たちは、何をどう反省するのかさえ理解していなかったと思われます。その意味で言えば、天皇制国家は、教師一人一人が、自分で考える能力の奥深くまで狂わしていたことがわかります。

7 マスコミ・その他

 ラジオ、新聞、雑誌などの報道・出版界は国民を戦争へ煽(あお)った責任があります。また、警察は弾圧という手段で戦争反対の声を押しつぶした責任が問われます。また、県・市町村の役人は直接戦争協力を住民に命令したり、地域の指導者は上からの命令を直接住民に伝えたりしています。それら国の隅々で命令を出す者、伝える者の責任は、命令系統の中でかき消されてしまう傾向があります。つまり、「命令だったから…」という言い逃れで己の責任を消し去ってしまうことです。しかし、真の民主主義社会を実現していくためには、決してうやむやにしてはならない問題だと思います。

8個人として

 一方、個人レベルでの自らの戦争責任の追及や戦争責任の反省はずっと続いています。例えば、元軍人が戦争でアジアの人たちに犯した罪の償いをするとか、再び教師にはなるまいとか、逆に平和教育に徹した教育をするとか、あるいは、二度と戦争を繰り返させないための活動に命を捧げるとか、資材をなげうって平和会館を建てるとか、戦争の悲惨さを語り継いでいくとか…。このような一人一人の戦争反省が無数に行われて、現在の日本の平和運動の礎(いしずえ)となっています。

9沖縄の場合

    戦争責任の追及は、当然沖縄においても進められるべきでした。十数万人の戦争と関係のない住民の尊い命や財産を奪い、文化や自然を破壊し、経済を混乱させた沖縄戦ですから、奪われた者の立場から、次のような責任追及の声が出てくるのは当然のことです。

   誰があれだけの人命を奪ったのか、誰が住民を戦場に巻き込んだのか、誰が住民を戦場に刈り出したのか、誰が住民を餓死させたのか、誰が住民を「自決」へ追い込んだのか、誰が住民を虐殺したのか、誰が安全であるべき捕虜収容所で住民を死へ追いやったのか、誰が奪われた財産を返してくれるのか、誰が強制労働の代価を支払うのか、誰が私の一生を台無しにしたのか、誰が私の心と肉体の傷を癒(いや)してくれるのか…。

    小さい沖縄の中で、数々の戦争犯罪を問う事実が横たわっていますが、それらについてそのほとんどが問われたことはありません。

  沖縄戦の責任を問う時、その筆頭にあげられる一人が牛島司令官です。彼は沖縄戦指揮の最高責任者として自決しましたが、沖縄住民に対する謝罪の意味で自決したわけではありません。しかし、彼は命令で動いた軍人です。とすれば彼を命令した上官は誰か、そして、上記の事実にそれぞれ該当する戦争指導者たちはどう責任をとるのでしょうか。

  また、本土におけるアメ リカ占領軍による戦争責任追及も沖縄では行われていません。アメ リカ軍は、沖縄の直接軍事支配のために、沖縄の指導者たちを利用する必要があったからでした。本土で行われた「公職追放」を沖縄に当てはめれば、当然「公職追放該当者」となるべき人がたくさんいたはずです。しかし、そのような人たちが沖縄戦の終盤から米軍に協力していたことが明らかになっています。

    要するに、沖縄でも、アメ リカは自国の政策を自国の都合で進めただけでした。したがって、占領政策を進めやすくするためには、「軍国主義の指導者」であっても、利用できる人物は利用していったのです。戦争中、市町村に対して「戦争遂行」を指示し命令していた者が、戦後はアメ リカ軍の代弁者(だいべんしゃ)となって住民の前に現れたことは象徴的なことでした。

  他には、戦前から戦争中にかけて、住民を戦争へ駆りだした役場の職員、学校の教員、警察官、その他公職にあった人たちが、戦後、どのような戦争責任をとったのかもあきらかではありません。「皇民教育」で子供たちを戦争に駆りだした教員が、捕虜収容所内の学校で自慢の英語を子供たちに教えていたことや、民主主義教育がスタートした戦後の学校で、「教育勅語」を教えていた教員のことなどもやはり象徴的だと思います。

  このように、沖縄においては占領軍の戦争責任追及もなく、また、まもなく始まるアメ リカ軍の凶暴な軍事支配と戦争被害の大きさとも相まって、戦争責任問題は始まることもなく終わってしまいました。そのせいか、アメ リカ軍の軍事占領政策を推しすすめる側に立った「公職追放該当者(戦前の指導者たち)」たちが、アメ リカ軍の銃剣とブルドーザーによる土地取り上げに反対する住民の前に立ちはだかったことも、また象徴的なできごとでした。

 一方、アメ リカ軍は、自らの沖縄戦における次のような犯罪をうやむやにしてきました。占領地及び収容所内において、食糧探しなどの住民を殺害したり、婦女暴行・殺害事件を起こしたり、食糧危機による餓死者などを放置したりしました。また、捕虜確保の段階で、日本兵だと判明した時、無抵抗の者を銃殺したり、移送の段階で捕虜虐待をしています。さらに、収容所内の病棟では、違法な「安楽死」や「臓器取得」さえ行われていたのですが、これらのことが、軍事占領政策の中でその責任が問われたことはありませんでした。

10なぜ、真の戦争責任が問われなかったか

    なぜ、先の戦争における戦争責任が徹底して行われずに終わったのでしょうか。このことは、同じく戦争を引き起こしたドイツ、イタリアとも大きく違う所です。特にドイツは、現在でも戦争犯罪の追及をゆるめてはいません。

    日本の場合、戦争責任の追及については、すべてが、アメ リカ占領軍の占領政策によって進められたといっても言い過ぎではありません。一部民間などからもありましたが、国民全体のものにはなりませんでした。

  したがって、冒頭述べたように、軍人に対する裁判が終わった後、「公職追放(こうしょくついほう)」といって、国会議員、地方議員、官公庁職員、教員、報道関係者、企業関係者などの一部が、公職(社会に大きな影響を与える職業で公務員や議員など)から追放されましたが、それも、アメ リカの対日政策の変更によって中止になり、それ以降、戦争責任の問題はすべてが終わったことになってしまいました。

 それどころか、アメ リカ占領軍は戦犯追放の解除(一度戦争犯罪人と断定したものを取り消すこと)まで行ったのです。その結果、敗戦後の日本の指導的立場の人は、戦前のそれと同じ人たちが担っていくことになりました。

    このようにして、もっぱら占領軍の力による戦争責任追及は、日本の政治がアメ リカの政治に組み込まれていく中で、うやむやにされていったのです。

 本来、自らの行動を自らの判断で責任をとるのが民主主義の原点です。しかし、当時の日本の各界の指導者には、民主主義そのものさえ理解されていなかったし、また国民の多くにとっても民主主義は芽生えていなかったのです。さらに、アメ リカの民主主義も自国の利益の範囲内のものでしかなかったことが明らかになりました。

 このように、自ら犯した重大な過ちに対する反省のあいまいさが、戦後半世紀を経た今日でも、アジア諸国の不信感を抱えながら、自主的、主体的な独立国としての誇りを持てない現在の日本に影を落としているのではないでしょうか。

50−平和への道−4] 二度と戦争を起こさないために何ができるのですか。

 戦後、沖縄の人たちが、自分たちの体験を繰り返させないために行ったすべてのことが、戦争を起こさせない行動につながっているのだと思います。
                                       (参照[47-平和への道-1])
    しかし、一人一人がそのすべてを行うことは不可能なことです。したがって、一人一人が自分は何ができるのか、ということをまず考えるのが大切だと思います。

    年齢、性別、職業・役職、地域、思想・信条、宗教、性格などとさまざまな立場の人たちがこの社会を構成しています。したがって、「戦争はいやだ」という一つの目標に向かって行動する時、さまざまなことがあって当然です。いや、さまざまな行動があった方がよいのです。つまり、社会そのものを多様な社会に作り上げていくことです。いろいろな考え方の人たちが一つの国家を作っているわけですから、日常生活から、文化、教育にいたるまで多様な生活の姿があった方が良いのです。

    戦前のように、画一化された社会では、国家・政府の宣伝に載せられやすいという欠点があります。すべてが「右ならへ」というものの考え方が、戦争への道を突っ走ったともいえるのです。多様な考えの人たちが多様な生活を営み、多様な文化・思想を形成していくことが、ある意味では戦争を抑止する力となるはずです。

    そして、その基本となるのが、「自分を大切にする」思想です。思想というと大げさと思うかもしれませんが、人間が生きるということの本質に関わることですから、私は思想といっても良いと思います。自分が生きることの意味(価値)を大切にしている人は自分の命を大切にします。本当に自分の命を大切にする人は、他人の命をも大切にできるし、また、自分の命や生きる価値を壊すものに対して立ち向かうこともできます。そこに、戦争を起こさせない根本が流れているように思います。

    戦前の日本では、多くの人たちが、自分の命を神としての天皇のために捨てるよう教育され、その覚悟をさせられました。そのような思想では、自分が幸せであるはずはなく、他人を守ることなどもできないばかりか、国民を不幸のどん底に陥れてしまいました。

    このようなことを共通理解した上で、「戦争はいやだ」という気持ちを、日常的に行動化するために三つのことを考えてみました。

一つ目に大切なこと「自立」

  まず大切なことは、自分という人間を「自立」させることだと思います。そのためには自分自身の中にある考え方や感じ方を客観的に理解しなければなりません。人間は、社会(周りの人たち)との関わりで、笑ったり泣いたりしていろいろな反応をしながら生きています。無数にある反応の中から、戦争と平和に絞って考えてみましょう。そのキーワードは、命とか幸福、人権、豊さ、差別・偏見、民主主義、憲法、軍隊、国家などがあげられます。

 政府は、「命」が誰のものであるかを無視して、「天皇のために棄てる」ことが「幸福」であると、押しつけました。また、他人との関係では、「差別」がありました。中国人や朝鮮人などを差別し、国内では、沖縄やアイヌを差別し、「部落民」を差別し、小作人を差別していました。力のある者、学歴のある者、お金のある者などを偉いと思わせました。

    差別は、価値観の比較を人間に当てはめた時から始まります。たとえば、背が高いか低いか、力が強いか弱いか、金持ちか貧乏かなどなど、はてしなく続く比較によって、人間に順位をつけてしまうことになります。また、このような比較のものの考え方は、ものごとを「二者択一(二つだけのうち一つを選ぶこと)」の目でしか考えられないことにしてしまいます。

  ところで、人間の価値観を比較したり、二つの価値観に限ってしまうことが本当に正しい人間の見方でしょうか。また、本当の幸福につながることでしょうか。人間を比較することは、比較される人間そのものも不幸ですが、比較して見る側の人間も不幸にしてしまうものです。なぜなら、人間の比較の根底には、ものごとを二者択一でしか見ない狭い世界しかないし、人間の思考活動をも停滞させ、同時に真に自分を生きることではなく、その場その場をうまく生きていく人間になってしまうことも含まれているからです。

    このようなものの見方ではなく、多様な人間の個性を認め合う見方が民主主義の根本です。したがって、多様なものの見方が広がれば民主主義の考え方も定着することになるし、同時に差別感も次第に消えていくはずです。現在まだ差別観が根強く残っているのは、民主主義の考え方がまだ未熟な日本においては不思議ではありませんが、戦前は、「民主主義」という言葉さえ一般国民には伝わっていませんでしたからなおさらのことでした。

 このような状況の日本で、多くの国民が政府の政策にのせられて、「戦争賛成」で突っ走り、戦争反対の声が大きくならなかったのも、日本人の一人一人が本当のものの見方、考え方を教育されていなかったからでした。

 それどころか、「民主主義は敵だ」と宣伝されれば、「民主主義とは何か」を自分の中で明確にしないまま、あいまいにそうだ、と信じ、「軍隊は日本をよくするものだ」と言われれば、そうだと信じさせられていました。つまり、一人一人が自分の生き方(考え方)をしっかりもっていなかった面がありました。

    自分のものの考え方や感じ方をしっかりさせる力、つまり、自分の生きる道を自分で決定できる力をつけていなかった、ということになります。このような「自立」の精神が、自分の人生にとってきわめて大切なばかりでなく、戦争と平和の問題にとっても大切な力になると考えます。

  「自立」は、「自分の責任で生きていく」という意味の他に、「自分の立場をはっきりさせる」という意味も含まれます。人間は社会で生きていくために、自分の立ち場を明確にしなければなりません。自分の立場がはっきりしていない人は、周囲の意見に自分を合わせてしまうことになります。つまり、先に述べた「その場その場をうまく生きていく人間」になってしまいます。

    人間は、あることに対して同じ反応をするものではありません。例えば、先の戦争についても、国民の多くが「すべきではなかった」と言いますが、その内容は千差万別です。また、「良かった」という人もいます。このことは、その人の立場の違いで意見が分かれる事を証明しています。自分の立場がはっきりしていない人は、周囲の人たちの意見に合わせていくことになります。

    この「自分の立場」を明確にすることは日常の生活でも大切ですが、戦争と平和の問題に限って言えばことさら大切なことだと思います。つまり、自分の立ち場は「平和」か、それとも「戦争」かということになります。「戦争の立場」をとる人がいるのか?と思われるでしょうが、いるのです。なぜなら、「戦争の立場」をとる人がいるから戦争は起こるのですから(主として戦争で利益を得る人たち)。(参照[49-平和への道-3])

    また、本当は「戦争の立場」でありながら、それを隠して「平和の立場」を装い、本当の「平和の立場」の人たちを「戦争の立場」にしていく人たちもいます。例えば、先の戦争を始めた政府や多くの政治家や財閥・大企業は、「アジアの平和のために戦う」と言っていました。

    その意味でも、本当の「戦争の立場」を主張する人よりも、うその「平和の立場」を主張する人が多いかもしれません。したがって、本当の「平和の立場」の人は、うその「平和の立場」との違いをはっきり見抜くことができなければなりません。

二つ目に大切なこと「知ること」

 そこで、次に大切なことは戦争が起こる原因を科学的に知ることです。知るためには、一人でできることと他人との関係でなければできないことがあります。

    一人でできることは、学習することです。学習の基本は個人です。つまり、疑問や課題をもち、それを解決していくための方法を探り出し、その方法によって答えを見つけ出していくことは全く個人の行動です。このような学習によって、あることがらに対して自分の立場がはっきりしてきます。そして、自分の立場によって、他人との関係で反応していくことになります。

しかし、その反応は一人よがりかも知れませんし、間違いだってあるかもしれません。それでも、自分の立場を明確にしつついろいろなことがらに反応していくことはとても大切なことだと思います。

    他人との関係で、自分の立場と相手の立場が食い違った時、ディスカッションが生れます。つまり、他人との関係による学習(ディスカッション)が生れます。自分の学習したことが、ディスカッションで修正されたり、より確かなものになったり、深まったりします。このことは、決して一人の学習ではできない大きな前進です。したがって、ディスカッションのないところに、真の学習はないと思います。
 私たちは、以上の二つの学習の中から、ほんとうの「平和の立場」とうその「平和の立場」の違いを全身で理解することになります。またそのことによって、何がほんとうの平和であり、何が戦争につながるかも見えてくるはずです。

三つ目に大切なこと「行動」

    最後に大切なことは行動することです。人間の知識は、行動をともなって初めて自分のものとなります。つまり、頭の中の理解だけでは、自分の立場を確かなものにすることも、また、自分の人生に生かすこともできません。

 では、実際に戦争と平和に関しての行動にはどのようなものがあるでしょうか。冒頭述べたように、沖縄戦(広く太平洋戦争、もっと広く第二次世界大戦)が終わった後、沖縄の人たち(広く日本人、もっと広く世界の人々)は再び戦争の悲劇を繰り返してはならない、という気持ちからさまざまな行動をしてきました。

 国際社会の段階では、国際連合を設立し、さまざまな機関を作って国と国との話し合いを進め、国際協調を強めています。また、国家の段階では、多くの植民地だった国の人々が自分たちの国を独立させました。具体的には、例えば日本では、「憲法」で「戦争放棄」を定め「国際社会の紛争の解決には武力を使わない」という宣言をしています。もちろんそれぞれの国でも、「平和」のためにさまざまな条約や法律などを作って貢献しています。

    しかし、国際社会や国家の段階で、条約や法律を作ったからといって、平和が守れるというものではありません。なぜなら、国際社会や国家が自ら命をもち、動きだすことはありません。国際社会や国家を動かしているのは人間です。したがって、平和を守る条約や法律が、命を吹き込まれその役目を果たすことになるのか、それとも単なる飾りで終わるのか、または、ごみ箱に棄てられるか、それとも悪用されるかは、その国々の人間(国民)によって決定されることになります。

 そのように考えると、先にも述べたように、「戦争の立場」をとる人がいる以上、彼らは、自分に都合の悪い条約や法律は、ごみ箱に棄てるか、悪用するかして戦争を起こそうとするでしょうから、「平和の立場」の人たちは、平和を守る条約や法律に命を吹き込み、守ることによって戦争を防がなければなりません。

 例えば、戦争体験を話す、それを記録に残す、それを聞く、それを読む、戦争につながるもの(戦争を美化した新聞や雑誌、教科書、映画、おもちゃなど)に反対する、戦争反対や平和の絵を描いたり、彫刻を作成したり、それを見せたり、見たりする、映画やビデオ、劇、踊り、歌などを作って見せたり聞かせたりする、それらを見たり聞いたり歌ったりする、写真集や本を発行する、それを見たり読んだりする、戦跡を見に行く、勉強会を開く、平和の授業をしたり受けたりする、平和祈念館や資料館を造ったりそれを見に行く、慰霊塔や慰霊碑、ガマなどを調べる、平和や戦争についての討論会を開いたり参加したりする、集会やデモを計画したり、それに参加したりする、戦争につながる法律や政策に反対したり平和を守る法律や政策を作らせたりする…。

 本当に戦争を憎み平和を愛する世界の人々は、先の戦争の深い反省から、自分にできるいろいろな行動をそれぞれの国や地域で行っています。そして、それらの行動を通して、本当の「平和の立場」の人々が連帯し、団結してこそ、平和は守ることができると思います。

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